結月です。
もう6月。
提出しなければならない事業計画を先月から作成していて、やっとできてきた。
今年に入って半年近くになるけれど、何もしてなかったような感覚、というか結果が出るようなことをしていなかったからであるけれど、振り返ってみていろいろしていたなとわかる。
予防医療の見識も年明けの頃はまったくなかったし、それをやるとも考えておらず、2月ごろから何となく考え始め、そこから病気の仕組みなどを調べていた。
その間、来年の公演のためにサントリーホールとやり取りしたり、プログラムを決めるのに候補曲の予算をリサーチしたり、リハーサル会場を探して抽選をしたり、確保のために東京に出向いて金を払ったり、行政書士とやり取りをしたりなどなど、思えば暇をしていたわけじゃないんだなと感じはする。
ともかくそれらはすべて準備の作業だから達成感がなく、達成のためのプロセスの中にいるから「何もしてなかったような感覚」があるわけである。
しかしながら、年明けの頃の自分と今の自分を比較すると全然違っていて、知識の量や見識は半年前よりもかなりグレードアップしている。
医療に関しては特にそうだし、法務・税務関係もそうで、半年前は全然知らなかったことが今では他人に説明できるほどになっている。
そうこうしているうちに半年前だと思いつかなかったアイデアや企画も生まれ、今は結構大がかりなことも考えている。
というわけで、当初の予定より遅れていることも発生していて、それは新しいことがどんどん入ってくるからその処理をしていて予定していたものが遅れる。
でもその遅れも悪いものでなく、予定通りの進め方をしていたら中身が乏しいものになっていたわけで、見識を深めたりしたおかげで中身が重くなり、そのせいで時間的な遅れはあれど充実してきている。
昨日もアイデアが閃いて、うまくいくかわからないがとりあえずアプローチしてみる。
もしそれが手に入れば大きな戦力になるのは間違いない。
ジェネオケも昨年いきなり立ち上げたもので、いきなり公演をしたから事業計画的なものやコンセプトはとりわけなかった。
しかし、準備を万全にしてからでないと始めない、という日本的な思考はわたしはまったくいいと思っていない、というか間違いだと認識していて、物事はとりあえず始めてみることが基本である。
なぜなら、準備を整えても、コンセプトを決めてスタートしても実際にやってみるとその通りにいくわけはないから。
あとは準備ばかりしていつまで経っても机上空論になるからで、とにかく始めてみて、あとから将来を考えるのがいい。
恋愛だってどう告白するのが失敗がないかなんてグズグズ考えているよりも、なんでもいいから「好きです」と言ってみること。そこから物事は動き始めるのだから。
宮崎駿はナウシカのキャラクターは、
「走りながら考える人」
と言っていたが、考えてから走るのでは駄目で、とりあえず走ってみて、そしてどうするかは走りながら考える。わたしもそれに賛成である。
なので、昨年はいきなり公演を二つやって、やったためにたくさんの情報が得られた。たくさんのことがわかった。ロケットの打ち上げと同じで、打ち上げてみてデータを取る。
来年の公演はサントリーホールで行うが、その公演をやると決めてから「さて」と考える。
とにかく、何事も動いてみないとわからない。どうなるかはやってみて課題が出るもので、その課題に取り組み、またやってみる。その繰り返しによって発展する。
今は名だたる大企業もその企業はプレハブだったなんて話はよくあるが、とにかくプレハブでいいからやってみる強い好奇心が必要なのである。
そして手痛い失敗を重ねながら、見識を深めていく。
ちなみに5月はわたしの油断した見通しのせいである案件が駄目になるギリギリであった。楽勝だと思って進めたものが一つの処理につまずいて、現実にはその期日に終わらせるのはかなり厳しく、その案件はNGになるところだった。
おかげで勉強になった。そんなんことだとは知らなかった。もっと簡単だと思っていた。しかしそれは20年前の話で、今は事情が違っていたのである。
ギリでセーフか、やっぱり駄目かの境目で気が気でなかったが、処理を急いでもらい、できる限りはやった。すると奇跡が起きて、その締め切りは延長になったのである。
おかげで事務的なことは悠々と間に合い、さらに事業計画もさらに練りこむことができた。
3週間ほどは冷や汗の毎日で、どうにか間に合わせるシミュレーションを脳内で重ね、交渉を持ちかけるも例外は認められず、ヤバいヤバいと胸の中で呟き続けていた。
でも、おかげで思考は深まり、その経験によって力強くなれたように思う。
だからやってみないとわからない。どれだけ用意周到にしたってやってみればトラブルは出てくるものだから、それならとにかく始めてみて、そこから考える。アプリ開発がとりあえずリリースして、そこからバグを見つけ、修正しながら前に進むのと同じである。
未来というのは人間にとっては不確定なものなのだから。そもそも未来は見えないもので、見えたつもりのものは見えたのではなく、ただの予測にすぎない。
そう言えば、今日の夕方、助手席に座る6歳の愛娘と話していた。うちの愛猫があと何年生きるかを訊いてきた。そしてわたしは、
「そんなの、わからないよ。じゃあ、あんた、今6歳だけど、あと何年生きるの? いつ死ぬの?」
「う〜ん、わからない。80歳くらいかな」
「そんなのわからないさ。アタシが大学のとき、隣でバイオリンを弾いていた子は25歳で突然死んだよ。あんただって25歳で死ぬかもしれないじゃないか?」
「そうかも…」
「もしかしたら今日死ぬかもしれないよ。このクルマにアホな車が猛スピードで突っ込んできて、30分後にわたしたちは死ぬかもしれないね。いや、5分後かもしれない」
と、そんな話をしていた。
じゃあ、30分後に死ぬかもしれないといって、クルマをどこかに停めて走るのをやめるか? やめやしない。事故で死ぬかどうかだって走ってみなければわからない。死なないことも走ってみないとわからない。
だから、不確定な未来に対しては、やってみて進むしかない。