結月でございます。
今ちょうど公演の仕事にどっぷりであって、頭がパンクしそうなほどに大変な中、ふと、
「音楽ってなんだろうね?」
という根源的な問いかけがパンクしそうなはずの頭の中に浮かんでくる。
忙しいのだからそんな面倒な問いかけなんて考えなくてもいいのに思い浮かんでしまう。
それは公演の業務というのが強烈なプレッシャーと緊張のものだから、
「なんでこんなキツいこと、やってるんだろう?」
と、自分の中で思い直すことがあって、だからこそ、こんなに大変な音楽って何だろう?と思うのかもしれない。
音楽は何か?なんてダサすぎる質問で、そんなダサい質問には、
「音楽は平和をもたらす」
とかダサい回答があったり、
「音楽は人類に通じるアート」
みたいなこれまたダサい答えがあったりする。
こういう答えをする人はきっとお花畑に違いなく、そもそも音楽で世界が平和になるんだったら戦争なんて起きやしないし、音楽が人類に通じるのであればどうして音楽を聴かない人が普通にいるのかしらん?
映画監督の黒澤明に、
「映画って何ですか?」
と訊いたテレビのリポーターみたいなのがいて、黒澤さんは急に不機嫌になって、
「そんなのわかんないよ。わかるわけないじゃないか。わからないから映画を撮ってんだ。わかったら映画なんか撮らないよ」
と、ちょっと怒り気味にそんなことを言っていた。
わたしも音楽に対しては同じ考えで、音楽が何かわからないからやっているわけだし、音楽に答えがないからクラシック音楽だって何百年も続いている。答えがあったら「そういうこと」として音楽の探究は終わってしまう。
だから、音楽が何であるか、その根源的なことはわからない。
わかるものでないのに無理に答えようとするから、歯が浮くような回答になって平和とかそういうことが持ち出されたりする。
ところで「音楽が好きか?」という問いかけは容易に答えられる。それは個人の主観でいいわけだから、好きか嫌いかは「うどんかそばだとどちらが好きか?」という質問と根本的には変わらない。
わたしは音楽が好きか?と訊かれたら、
「もう今はどちらかというと嫌い」
と答える。
大きな公演を2016年にやり始めてから、音楽を聴かなくなった。あれだけ音楽が鳴りっぱなしで、何をやるにしてもずっと何かしらの音楽がかかっていたのに今はさっぱり。
公演をやるようになって、そのあまりの大変さに音楽を逆恨みしているところがある。ところがまだ続けている。去年のコンサートで公演の仕事からは足を洗おうと思ったが、またやっている。
思えばこれは長い結婚生活のようなものかもしれない。相手のことが嫌いであるけど、離婚まではしない。
たまに老夫婦を見かけると、会話が一切ないままベンチに座っている。あれは究極の姿である。もはや話をするようなネタもない。ただ一緒にいる。
夫婦関係がどうとか、そういう話題をするのはまだ青臭い証拠。
長く一緒にいた結婚相手なんて顔を見るのも嫌だし、一緒に出かけたくないし、トイレの音を聞くだけで顔をしかめたくなる。
美輪明宏さんは「謎の同居人」という表現をしていたが、うまいこと言うものだ。
離婚をする場合は、夫婦間に紛争があるもので、浮気をやめないとか、連日DVであるとか、とにかく言い争いばかりをして、「もう終わりにしよう」となる。
ところがそこまでの紛争がなく、謎の同居人が何となく嫌というのは離婚にまでは至らない。
きっとわたしにとっての音楽は長く共にした結婚相手みたいなもので、今更「好き」だとときめくようなものでないのである。それどころか面倒なことばかり持ち込んでくる鬱陶しい奴である。しかし、離婚はしていないから鬱陶しいと思いながら、面倒なことを処理したりする。
じゃあ、すっきり離婚すればいいかというと、そこまでの激情もない。だらだらというやつである。そして、嫌いだし嫌だと思っている割にいなくなるもの困るかなという程度で捉えている。
というわけで、古びた結婚相手に恋愛のような感情が湧かないのと同様にわたしは音楽に対してはもうときめくことがなく、公演を通して人と関わり、ホールに来てくれたお客さんのことを愛し、音楽を通して感動してくれる風景を見たいとか、そういうところにいる。プロデューサーとはそういう人種なのだろう。
だから、公演をプロデュースし始めてから音楽は聴かなくなった。
そして、大変すぎるこの仕事をやればやるほど音楽のことが嫌いになってくる。
でも、嫌いなんて言っているうちはまだ興味があって、自分がやらなければならないことがあるからだと認識している。
「もう終わりにしよう」と離婚を決意するのは相手が嫌いという感情を通り越して、もうあなたには興味を持てないから終わりという意味である。
つまり、嫌いでいるうちはまだ興味がある。興味が底をつき、何の関心を持てなくなったら本当の終わり。
わたしは音楽そのものにでなく、音楽を通してできることに興味がたくさんあるからまだ公演をやっている。あとどれくらいやるかわからないけれど、その興味がすっかり消化されて、
「もう興味ないよ」
と、冷たく言うときが音楽のやめ時。
続けることが目的になるとそれがやめ時、という考えがわたしにあるから、興味がないのに続けなければならないと思った瞬間にやめる。
多分、それが興味が尽きるまでやり切ったということだろうから。
そこが演奏者と異なるところで、演奏者は音楽を奏でることで音楽と常に一体であり続けられるけれど、公演のプロデュースはほとんどが音楽とは関係のない実務であり、感動は演奏会が成功したときのみである。
でも演奏者にはないところがあり、それは音楽の「場」を作り出すこと。
ともかく、音楽が何であるかはわかりやしない。
と同時に音楽が何だろうかはちょっとは考えておく。なぜなら考えることで悩むから、いろいろな回答が自分なりに出てくるから。コアには到達できなくとも、周囲は少し埋まってくる。
いや、でもわからない。
今、バッハの無伴奏バイオリンの旋律を頭の中で鳴らしてみたが、それがなんであるかわからない。時代背景とか、バッハがどのような境地で書いたかとかそういう意味でなく、バッハの無伴奏が音としてあって、それがなんであるかはさっぱりわからない。
別に必要なものでもなさそうな気はするし、ところがどうしてあんな音楽ができあがったのだろう?と考えてしまう。
きっとそれがわからないから公演をプロデュースする。
バッハの無伴奏、これがどういう音楽で、なぜ存在するのかわからないからコンサートを企画してヴァイオリニストに弾かせる。そしてお客さんを呼んで、どうだろう?と提案してみる。
思えば今回のジェネオケの第九だってそうだ。第九は「年末の風物詩」とされていることに何だか違和感があって、軽く扱われていることにムカついていた。そして、ベートーヴェンの9番が一体何なのか、自分でもよくわからない。何なんだろう、この音楽は?と思っている。
それがベートーヴェンの苦悩だとか、そういう知識的なものはまあまあ感じ取れるが、あの曲の根源的なところがさっぱりわからない。
だから、公演でやってみる。オーケストラを用意して声楽を揃えて、マエストロにやってもらう。
でも、それをやってもわからないに決まっている。なぜなら、今まで公演で扱ってみた曲のことを今でもわからないままだから。
モーツァルトのレクイエムは去年やったがやっぱりわからない。とてつもない曲であることはわかったが、根源的にその存在がわからない。
どんな名曲もそれに対しても奥深い解釈を聞いて「なるほど!」と思うことも多々あるけれど、それはその人の個人的見解であって根源には到達し得ない。
だから、音楽はいつまで経っても完成されないものである。それゆえに演奏はされ続ける。
それはきっと宇宙の根源を探るようなものだ。宇宙物理学者たちが宇宙を解明しようと絶えず仮説を打ち出す。そして時折、それが証明される。ところが証明されると新たに謎が生まれる。わかったと思ったらわからない。
この宇宙のすべてを解明できやしないことと同様に音楽がある。だから音楽が何であるかはわからない。