結月でございます。
小さな愛娘といることでわたしという人間が健全化しているところがあるな、と思う。
先月、銀座に行ったとき、菊水という老舗煙草屋に行き、葉巻を何本か買った。あればいつでも吸えるしと思ったわけだが、実際には全然吸っていない。公演が忙しくて吸う時間はなかったが、公演が終わった今も気分的には吸う気がしない。
いい葉巻は吸えばおいしいし、アダルトな極上の時間になるとはいえ、まもなく6歳になる愛娘と夜は一緒であるからどうも吸えない。葉巻は1本吸い切るのに1時間弱かかったりするから、ベランダで吸うわけにもいかないし、そもそもそんな惨めなことはやる気がしない。
昼間は吸えるが、葉巻は部屋が臭くなるため、吸っている最中はよくても吸った後に大変後悔する。自分で吸っておいて消臭スプレーを部屋中に噴射しているのだから世話ない。それに葉巻はしばらくの間、口の中も気持ち悪くなる。いや、タバコが好きならそれは気持ち悪さを感じないのであるが、それが気持ち悪いと感じるようになっているわけだ。
夜、食事をした後、今吸ったらきっとおいしいだろうなと思うときもあれど、5歳児がいると雰囲気はロンパールーム。葉巻なんか吸えるわけがない。
ちなみに今日は夕食後、ねずみのキャラクターの双六をやった。
おそらく、小さな子供というのは健全の塊なのだろう。幼児さは不道徳を跳ね返す。
思えば、わたしはずっと不道徳な人間だった。今もそうかもしれないが、昔に比べるとずっとよくなった。しかしそれは「道徳」的になったわけでない。世間の道徳は得てしておかしなことばかりなので、わたしは道徳的ではない。今だと、屋外でもマスクするのが道徳的かもしれないが、それは科学的にも意味のないことだし、政府も必要ないと発表している。でも世間の道徳はおかしなことをやる。
そう考えるとやっぱり今も不道徳な人間かもしれないが、昔より「退廃」的でなくなった。
デカダンに魅力を感じていたし、だからアール・ヌーヴォーも好きだったし、生活の基本形が退廃的だった。
随分前のこと、それがいつのことだか定かでないが、二十歳前後の頃、高校の同級生数人と大阪のミナミの居酒屋で飲んだ。うろ覚えだが、広い広い座敷だった。その後、心斎橋まで行った。誰が知っていたのか、多分、二丁目劇場と同じビルかその近くの雑居ビルに行くと、広い広いクラブだった。おそらくあれをクラブというだろう。でも定かでない。
人がごった返ていて、男も女も入り乱れ、フォークギターを弾きながら歌っている男の声はアンプを通され盛大だった。
小さな窓口のようなカウンターに刺青が腕に入った白人がいて、そこで酒をオーダーする。ジントニックを注文すると、右手にジンのボトル、左手にトニックウォーターを持ち、同時にタンブラーに注ぐ。レモンはない。ひどくいい加減に作られたジントニックは美味しくはなかったが、うまさを求めるような場ではなかった。
男の歌声が皆が知る曲になった。曲は忘れたが坂本九の「上を向いて歩こう」だったかもしれない。大合唱になった。酔っ払いながらわたしも歌ったかもしれない。
それくらいの記憶しかないのだけれど、どういうわけか猛烈に楽しかった。あんな楽しさは後にも先もない。
今でも六本木のクラブに出かければ味わえるのに違いないが、人間嫌いだから行こうという気になれない。
今から思えば、東京でもヤバい路線のギリギリまでは行っていたし、破廉恥にまみれてもいた。
若さという好奇心がそうさせたに違いないが、憑依でもあった。
ついでに言うと、その頃はずっと死にたいと思っていた。
なるほど、死にたいと思っているから、ヤバいところにも平気で行ける。
そんな頃に比べて今は自分が健全であるな、と思う。
死にたいとは思わないし、それどころか新しいオーケストラのコンセプトは、
「生きてることに、歓喜しよう」
なのだから。
しかし、若いときにひどいほうが人間にはいいのだ、とわかった。ガーシーの暴露にあるような有名政治家の破廉恥極まる遊び方を見ると、それは彼らは東大法学部を出て、エリート官僚になったりした人だったりして、つまり若いときに遊んでいないで極端なほどに勉強ばかりしていたからある程度の地位になってから「欲望」が爆発するのである。
と、自分を肯定的に捉えてみたが、退廃的であったことは良くはなかったな、と思う。
と同時に、退廃を身を以て知っているからこそ、人間の愚かさも理解できる。
その時間が無駄であったかそうでなかったかはわからない。自分の歴史としてそんな過去があったからそれは否定しようもなくすこともできず、それを経たゆえの今の自分であるからそれがいいか悪いかは判別がつかない。歴史は一つしかないのだから。
ただ今になってわかったことは、退廃的であるより、しっかりと真面目にやるほうがはるかに大変だということ。デカダンなんて結局のところは怠け者なのである。
ところが困ったことに真面目すぎる人間はおもしろくない。まるで役所の窓口である。
そして、デカダンには色気がある。
香水は香水の香りだけでなく、その人の体臭と混ざり合うことで深みが出る。だからこそ、香水をつけた肉体は夕方5時以降が最も色っぽい。
だから、デカダンはそんな香水の残り香くらいに身に纏うのがいい。なんだかんだ言って、色気のない人間はつまらないのだから。
すなわち、遊んでない人間はつまらない。
もっと言えば、破滅の谷底を覗いたことのない人間は軽い。
さて、わたしはもうデカダンはいらない。腐りゆく誘惑よりも、新しいものを生み出すほうがいい。
思い出したが、海外青年協力隊でパプアニューギニアに行った大学の同級生が言っていた。
南国ではパパイヤをかじってそれを捨てるとパパイヤの身は腐って、しかしすぐにその中の種がすぐに芽を出し、新しいパパイヤがあっという間に生えてくるというのである。
腐ったままでなく、芽を出すという。
腐ったままじゃ、つまらない。