結月でございます。
今朝、5歳の愛娘を保育園に連れて行くと、愛娘と仲のいい友達が年中組の子に、
「保育園にシール持って来ちゃいけないんだよ!」
と、いきなり大声で説教していた。
ああ、大人になったらそういう女になるのね…
と、胸の中でつぶやくわたし。
小学校でも中学校でもこういう正義感の女子はいるもので、学級委員候補。
別にシールくらいいいじゃん。保育園なんだし。
ちなみにアメリカの高校やなんかでは、先生の話をきっちりと聞いて、要はちゃんと勉強そのものをやっていれば授業中にチョコを食べてもいいという話を聞いた。
なるほど、学校は勉強をするところであり、勉強さえしていればチョコは関係ない。チョコを食べてなくても先生の話を聞かず、勉強してないのが良くない。
日本の場合は、勉強というより道徳というか、風紀というか、そんなところが重要視されるところがあって、勉強はできなくてもお行儀の良い子供が評価されたりする。
いかにも村社会で、雰囲気を乱すことを良しとしない社会だから、シールを持って来ちゃいけない!となるのである。しかし保育園ではシールを持って来てはいけないと明文化されているわけではない。
これはコロナでのマスク警察と同じで、日本は法律的にマスクは強制されていないのだれど、みんなマスクをつける。
外をひとりで歩いているのにマスクをしている人も普通であって、要するに感染対策の内容を理解してマスクをしていないのがニッポン。
つまりは感染とは関係のない風紀になっているわけである。
しかし、あまり根拠のないことが不文律としてまかり通っていると、それを信じちゃってる人が、
「保育園にシールは持って来ちゃいけないんだよ!」
と、真顔で言うことに対し、
「別にいいんだよ、そこまでしなくても」
と、なかなか言えないので面倒なのである。
なぜなら、信じちゃっている人に説明しても理解されないからで、
「そのシーンでマスクはいらないですよ。だって、喋ってないし、外だし、ひとりだし、そもそも周りに人いないし」
なんて言っても、
「いえ、やっぱり心配なんで…」
なんて言われると、もう会話は成立しない。
これは知能レベルや学力レベル、つまり感染対策を科学的に理解する力の有無にも関わってくるし、精神的にネガティヴであるかも関係ある。
科学的な話よりも周囲の人の目や非科学的な心配を優先されてしまうと、正しさは敗北するのである。
とは言え、保育園にシールを持ってくると、そのシールに子供が群がったり、さらに壁に貼ったりして保育園としては面倒だから、そういうのは持って来てほしくないという管理的な理由はよくわかる。
ただ、シールが駄目とは規則にないのに、学校に遊び道具は持って来ちゃいけない神話みたいなものが幅を利かせている。
さて、大人でもそういう女はいるし、そういう男もいる。
わたしはどちらかというとそういうタイプは苦手であって、そういう否定があるとアートはできないから好きにやらせてほしい。
しかしながら、アートの世界には保育園にシールを持って来ちゃいけないなんていう不文律以上に狂気的な独善的正解があり、創作の上で絶対にやってはいけない美という名の正義があり、シールなんか比較にならぬほど厳しい。
画家が絵を描くなら、その色は絶対に、絶対にその色でなければならず、他の色で代替なんて絶対に、絶対に許さない。
音楽の場も猛烈に厳しく、強弱でありテンポであり表現であり、それでなきゃ駄目なんだから、そうでないものに対しては人格否定だって珍しくない。
アートの世界は法律や学校の規則なんて軟弱に見えるほどの怖すぎる不文律があるのである。
芸術は自由であれど、それをそのこだわりは不自由の塊みたいなもので、すなわちそれが美である。
芸術に携わる人は美に対しては強烈に厳しいのに、普段の生活となるとだらしがない身勝手というのがよくある話で、であるからして世間では芸術関係者の話はあまり説得力がない。
さて、三つ子の魂百まで。
シールを持って来たことに説教する子供は大人になってもそのまま育つに決まってる。
やれやれと思いつつ、反面、あまりにもいい加減すぎるのも困る。
その典型例がゴミ屋敷であるが、いい加減すぎて日常の普通レベルのやり取りが困難だと一緒に仕事もできないし、約束は履行されないだろうし、ちょっと困る。
それならシール如きで激怒するほうがマシな気もするが、まあどっちも困る。
であるからして、人間関係が下手くそなわたしは他人といるよりもひとりで引きこもりになるわけで、猫さえいてくれればいいと、結局そこに落ち着く。