結月です。
いよいよ12月になり「ふ〜ん」なんて思いつつ、スーパーへ行くとジングルベルが聞こえたりする。
今年は春になったくらいに公演の企画がスタートしたので、マロオケ2021という通りマロオケの一年だった。つまり、一年の最初と終わりの両端以外はずっと公演にどっぷりな日々だったのである。
公演は終われど、事後処理の仕事はまだどっさりと残っていて、今日も夥しい書類を整理したり、その書類をExcelに打ち込んだり、お金の集計をしたりと音楽はやったけど音楽でない仕事に追われている。
あと2週間ほどはこんな感じであろうと思いながら過ごし、同時に今回は公演をネット配信しているのでクリスマスまでは配信で一人でも多くの人に見てもらいたいため、わたしにとってはまだ公演は終わっちゃいない。
配信の視聴券はチケットぴあで「マロオケ」で検索してもらうと出てきて購入できるのだけれど、実はまだわたしは見ていない。
「見ましたよ」という連絡を受けたりはする立場にいながら、自分はまだ見ていない。
まだ余韻があって見る気持ちにならないというか、まだ客観的に映像で見る勇気がないというか、もう少しコンサートホールでの感動を胸の中に残していたいというか、いろんな気持ちが混ざり合って配信を見ていないのである。
きっと見るのは事務的な事後作業がすっかり終わったときであろうか。
ところでオミクロン株なるものが新たにトレンドとなり、これはまだどんなものかははっきりしない。あと2週間もすればきっちりとしたデータが揃うことだろう。
しかし思うにマロオケ公演は日本においてはコロナがほぼゼロになるほど鎮静化したときに開催できて本当によかったと思う。
もし時間制限によって交響曲ができずレクイエムだけだったらあの感動はなかっただろうし、コロナまん延真っ盛りだとお客さんだって安心して音楽に酔いしれることはできない。オミクロンなる新種の話題もなかったから一番いい時期にコンサートができた。そう思うと、本当に強運のもとで開催できたのだと感じる。
でもまあ、相手はウイルスだけあって変異はするもので驚くことでもない。そんなものなのである。
しかしながら、まだ暫定的とはいえ、イスラエルの報告によればオミクロン株はワクチンを3回接種するとほぼ予防できそうであり、同時に接種していないと2.4倍重症化しやすいとある。
今のところ確定はしてないにせよ、まあそんなところだろうなとは思う。
日本は世界的に見てワクチン接種の優等生であり、接種できない11歳以下を除くと全国民の9割ほどは接種している計算になる。
しかし、残り1割、つまり1200万人は未接種であるから、ここに重症化が2.4倍となるとワクチン接種者から見れば他人事に思えてもまた面倒なことになるかもしれない。
この期に及んでまだワクチンを打たない、もしくは1回しか打っていないというのは、もう勝手にしとけば、と思えるほど話が通じない人々だと思いつつ、わたし自身は3月くらいに3回目接種になるのかなと心待ちにしている。
以前にもここで書いたけれど、ワクチン未接種者へはもう社会はそれほど優しくないというか、シカトするというか、うざい奴に思うか、そうなるだろうと思う、日本においては。
もし知り合いでワクチン未接種でオミクロン株に感染してもし死んでしまったとしても、おそらくはそれほど悲しまないのではないかと思う自分がいる。
なぜなら、ワクチンがあるのに打たなかったという選択には愚かさが漂い、
「そりゃ、そーなるわな」
と、ドライにその死は処理されてしまう。
ところで、急な水際対策で日本に帰国できない人がいるのは気の毒で、わたしは公演が終わったら愛するパリにでも遊びに行こうかと思っていたから行かなくてセーフだった。
帰国できないとなると留守番している猫たちのことを考えてきっと気が狂いそうになるに違いない。でも、実際にそのような立場になっている人は多いだろう。
ともかく猫がいると外国へ行っても気持ちが落ち着かないもので、2日ほどなら留守にできても1週間以上となると気が気でない。
しかしうちの猫たちも7歳を超え、猫で言うシニアになった。
猫というのは小さなうちは可愛いだけを考えて接することができるけれど、7歳を過ぎてくるとあとどれくらいこの猫と一緒にいることができるだろうかと死が忍び寄ってきて、猫といる一日一日が大きく感じられてくる。
人間より早く死ぬのがわかっている猫だから、残り時間が毎日消費されていると思うと寂しくなる。あと10年なのか、あと7年なのか、もしかすると3年なのか、猫といる時間を逆算してしまう。
無論、これは人間も同じで20代の若い頃は自分の死など考えないけれど、平均寿命の半分を過ぎてくると残り時間を意識するようになる。ましてや70代や80代となると死はリアルになる。
とはいえ、70代になっても年金暮らしで毎日テレビを見て過ごすだけなんていう高齢者も多く、それはもしかして死を意識していないからこそできる能天気さなのかとも驚きを感じる。
もしわたしなら70代になったら残り時間の短さのゆえにテレビなんか見るのはもったいなくて、ますます積極的に自分が生きた痕跡を残したいと思ってやったことがないものに挑戦する。
しかし、それも老人になったことがないから言えるもので、老人とはそんな気力もなくなってしまって、ダラダラと過ごしたくなるものなのかもしれない。
だが、わたしは死の意識が強いから、死を感じれば感じるほど頑張りたくなる。
猫も死ぬ。人間も死ぬ。わたしも死ぬ。
どんな死に方かは未知であるけれど、死に至るまでどんな生き方をしたかは自分で作り上げるものである。それは作品だと言っていい。
だからこそ、コロナ感染でいきなり死んでしまうのは避けたい。いきなりすぎて、死を意識できないから。なんだかわからないうちに死ぬのは困る。
死を意識すればするほど濃厚な生き方になる。
猫の死を意識し、猫との時間を濃厚なものにし、自分の死を意識することで自分の生き方を濃厚なものにする。
そして自分の死を意識できれば、他者も大事にできる。