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大きいけど漠然とした大義は通じない

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結月でございます。

映像はテレビよりYouTubeがおもしろいし、書籍よりネット記事のほうが楽しいし、新聞よりTwitterのほうが早い。

要するにオールドメディアと言われるようになったものは個人が情報を発することができなかった時代に情報発信というものを利権化して大きくなったと言える。

どころがネット時代になって、さらにほとんどの個人がスマホを持つようになって個人が簡単に情報を発信できるようになった。個人間のやり取りでさえ、わざわざ手紙を書いて切手を貼って郵便局という利権に行かなくてもLINEですぐできる。

つまり、社会はオールドメディアに集約されていたものが個人というものに分散して、それだけでなく個人の力が増した。だからクレーム対応も昔は無視できていたようなものまでゲリラ的に起こるものだからちゃんと対応しなくてはならなくなった。それをしないとたった1人のクレームでもネットで大多数の人が閲覧してしまうから。

「大きな社会から個人へ」という移行がたった10年ちょっとの間に一気に進んだ。個人が各々に発信できるから、社会の中での個人という生き方ではなく、個人の生き方と社会がちょっと距離を離すようになった。

こういうことは現象であるからいいも悪いもない。時代が変わってそうなったというだけの話。でも、昔の現象に慣れてそこから抜け出せない人にとっては「最近の若いもんは!」的な年の取り方をして今という現象に批判ばかりしてしまう。批判はしなくとも時代が変わったことを認識できないで時代錯誤なことをやっちまったりする。

この時代錯誤感は第三者から指摘してもらわないとなかなか自分で気づくことができない。また、指摘されても過去に固執していると聞く耳を持たないから理解できない。

ともかく、そんな個人発信社会になって「大いなるもの」が廃れている。大いなるメディア新聞の第1面を見たって、前日にYahoo!ニュースで報じられているようなものを一日遅れてわざわざ紙に印刷して掲載し、さらにそれを人が配っている。

交通事故による渋滞や鉄道の遅延情報の様子だってTwitterで個人がリアルタイムに情報をあげている。

とにかく今は個人の時代なのである。

だから、「大いなるもの」という漠然としたものはあまりウケない。

最近知ったのだが、あるプロオーケストラがクラウドファンディングを始めていて、そのサイトを見てみた。その見出しは、

「あらゆる人々へ、世代へ、地域へ、世界へ、未来へ繋がる社会活動のために」

だった。

これを見て、すごく古臭いと思った。オケはそれぞれで運営しているから悪く言うつもりもないけれど、すごく古臭いと思った。しかし、音楽などそういう立ち位置で運営する団体は多いような気がする。

音楽は素晴らしくて、あらゆる人々に必要なもので、どんな世界に行っても通用する的な。

当事者がそう思っているからこそ、大いなるキャッチコピーになる。

でも、今はそうした気分的な漠然としたキャッチはクールに分析されてしまう時代なのである。少なくとも若い世代はそうやって生きている。だから、情熱より冷めた目線で的確に判断する。

まず音楽はあらゆる人々へは浸透しない。興味がない人にとっては要らないもので、どんなに美しいとこちらが思う曲を聴かせたところでスマホで動画を大音量で見る人もいる。

音楽はあらゆる世代には伝わらない。伝わっているのは今のところ高齢者が主である。

あらゆる地域に音楽は届かない。音楽は元来、都会的なもので第一次産業や第二次産業に従事している立場から見ると自分にはまるで関係がないハイソな趣味でしかない。

音楽はあらゆる世界には存在しない。音楽の形態は土着性があって、例えば中国の田舎でショパンをかけても誰も聴かない。国それぞれの土着に愛されるものがあり、音楽は国境を超えるのはGDPが高い国の一部だけである。

そんな分析、というかツッコミが入るのが今であり、大いなるものに共感するのは年寄りだけで、それは昔はそういう大いなるものにロマンがあったからだろう。

「あらゆる人々へ、世代へ、地域へ、世界へ」ではまったくどこの誰に何を伝えたいのかさっぱりわからない。今はみんなスマホの個人レベルで生きているのにそんな漠然としたことを言われても困る。

それはきっとクラシック音楽というものが漠然としたものを魅力にしているからかもしれない。運命とか悲愴とか。大いなる気分であって具体的ではない。

しかし昔以上に個人レベルで生きるこの時代にそんな漠然としたことを言われてもよくわからない。まだロックや歌謡曲、J POPのほうが歌詞が具体的で個人に響きやすい。

でも今はそんな音楽さえも古くなっていてイントロは早送りされたりするし、さらに具体的な主張をしてくれる個人のYouTubeのほうがわかりやすいし心に響く。

要するに大いなるもので漠然とした主張は嘘くさいのである。これを買って身につければ幸せになりますよという霊感商法に近い。

「世界が平和でありますように」じゃ駄目なのだ。そんなことを呟いても平和になんかなりやしない。核兵器反対!と座り込みをしたってまるで意味がない。

ウクライナへのセンチメンタルな運動がたった2ヶ月ほどで廃れてしまって、つまりそれは最初だけだったのはあまりにも漠然としていたからに違いない。そんな大いなる願いや想いを唱えたところで戦争は終わらない。大いなるものの嘘臭さが行動を長続きさせない。千羽鶴を折るようなことは偽善にしか見えない。

大いなるスローガンがカッコよく見えたのはもう昔のこと。そこに気づかないとただ古臭くなるだけ。衰退するだけ。

もっと具体的に、できるだけ多くの個人に訴えかけられるようなアプローチ、そういうものが必要で、大きなブランドや大きなスローガンは要らない。

オーケストラを新設することをやって、自分のポジションを少し述べてみた。

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