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栃木のケンタッキーは岩手産だった。

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結月でございます。

京都のイオンモールKYOTOで食べたケンタッキーがミシュランレベルで美味しかったわけだが、時折行く栃木のケンタッキーはあまり美味しくない。美味しくないというかフツーなのである。京都が美味しすぎて、それと比べると美味しくないと感じてしまう。

実は京都から帰ってから、近所のケンタッキーには検証すべく、テイクアウトした。やっぱり違う。京都のテイストとは違う。肉がパサついている。

そして、今日も5歳の愛娘を連れてもう一度再検証のためにテイクアウトで食べてみたが、やっぱりイマイチだった。

京都のケンタッキーはレシートに「鹿児島産」と記されてあった。そして栃木は「岩手産」だったのである。

そうか… 岩手産がイマイチなのか… とステレオタイプな判断をしてしまうも、ケンタッキーは調理法や調味料は全国同じであろうから違うのは素材。となれば、鹿児島産の鶏肉がどうやら京都のケンタッキーをミシュランレベルにしているのだろう。

しかし、日本は鶏肉があまり美味しくない国なのではと思う。スーパーで売られているものはブラジル産の冷凍物が多いし、よほどの養鶏場でないと美味しい鶏肉はなく、普段手に入るものは国産であってもそんなに美味しいものでない。餌やら環境やらが原因であろう。

中国はその辺の市場で買う鶏肉は日本よりかなり美味しいし、農村でシメたばかりの鶏肉は食べてみると別体験のようなテイストだった。

フランスもスーパーで売っている鶏肉は美味しい。マルシェのものはもっと美味しい。

やはり日本は鶏肉はイマイチなのである。

そういえば、昔、中国でケンタッキーを一度だけ食べたけれど、どれほど美味しかったか記憶にない。その頃はケンタッキーが店によって違うなんて思いもしなかったから興味なく食べていたから。

フランスではケンタッキーは食べていない。というかフランスにはケンタッキーはあるのだろうか? マクドナルドはあるけれど、ケンタッキーは進出できていないかもしれない。フランスは実は欧米文化には排他的なのである。

さて、今日は税務署へ行ったり、市役所に野暮用に出かけたり、そして新設するオーケストラの公演のことで出版社に電話で話したり。

決して楽な道ではない公演であれど、自分がやりたいことであれば人に話すのが楽しくなる。

「こんなことやるんだけど、どう?」

と、自らにある感動を知らせたくなるのである。

今日話した編集者の女(ひと)は一度しか会ったことがないけれど、アホなことをベラベラ喋ってちょっとご機嫌だったわたし。相性なのだろうが、去年電話で初めて話した瞬間から気が合うなと感じる。そういうひとには自然とガードが下がるからアホなノリになる。

わたしは基本的に人間嫌いだし、人見知りだし、猫といることが最上の幸福なのであるが、相性がよければ多弁になってしまう。そういうのは九星で見れば大体わかるのだけれど、そんな多弁性があるからわたしが人間嫌いで人見知りというと驚かれることがある。

ともあれ、自分がやりたいことを楽しく話せないなんて、それは自分がやりたいことでないという逆説があるから、自分がやることは楽しく話せないと駄目なのである。

それに首謀者が陰気であったらうまくいくもののうまくいかない。首謀者はやりたいことに関しては天然のアホであるのがいい。

というか、アホでないと首謀はできないものだ。あれやこれやと考えてしまう小利口だと心配が先に祟っておもしろいことなんてできやしない。

それに自分がやりたいと思うものだからこそ、責任が持てる。

というわけで、オーケストラを新設して公演をすることの楽しみをできるだけ多くの人に伝えようと思う。本当は公演をすることは苦労を100倍濃縮したような格別の艱難辛苦があるのだけれど、それは自分の問題として置いておいて、公演に来てくれる方には楽しさだけが伝わればいい。

人を幸せにするのは自分が幸せそうにしていること。オーケストラも合唱団もソリストもこんなに素晴らしい奏者たちが集まってくれるだけでも幸せなことだし、その公演ができるというのも幸せなことなのである。これだけのことは簡単にできやしないのにいろんな条件が重なってここまで来れた。

そして、来年も公演をしたいし、再来年もしたい。できれば10年はやろうと思っている。10年やったら、わたしは本当の本当に音楽から離れることができそうだから。もう音楽はいいやと潔く、きれいさっぱり辞めることができそう。

自分の中にある音楽を全部消化できたとき、そこには大きな幸福があって、わたしはまた別の新たなことを始められる。

どんな艱難辛苦があっても幸せ。そういうつもりでこのプロジェクトを進めていく。

そして、これもお役目なのだろうと思うようになった。どんな人にもお役目がある。お役目を背負ってこの世に生まれている。そう考えると、自分のお役目に喜んで徹することができるし、他人が背負っているお役目も見えてきて、その人がどういう位置で生きているかを理解できる。

そうやって人と接していけば、なんとかこのプロジェクトもやっていける。

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