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自由は次第に花開く。

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結月でございます。

わたしが最も愛しているのは自由。

自由というのは、自己の意思にできるだけ制限がかからない状態であろうが、できるだけというのは完全に人は自由にはなれないから。

そして自由になるには「学び」みたいな泥臭いものが必要で、いきなり人は自由にならない。自由そうに見えている人はきっとその裏側や過去にたくさんの不自由を経験しているはずである。

わたしも今が自由であると思ったり、自由になれたと感じたりすることがあって、しかしそれまでが不自由であったかというと当時はそこまで不自由さは感じておらず、今になってちょっと不自由だったかなと振り返る。

何かに没頭しているときは当時の実力というか、当時の情報量、そういったものの中にどっぷりであるから自分が不自由だという認識がない。後になって新たな実力が身に付いたり、情報量が増えたりして比較することによって以前は不自由だったんだと気づいたり、今が自由なんだと思ったりするわけである。

そうやってステップアップしながら自由度が増していく。だからようやく自由になってきたと思っていても、それはまだまだ過渡期であるかもしれない。

しかし、人間はすべてにおいて自由にはなれない。自分が関わる限定的な「何か」に対してせいぜい自由になれる。

そして、そんな限定的な自由でさえ、やはり泥臭い「学び」が求められる。

なぜなら、「学び」が障害を退かす力になるからで、大きな自由を求めれば求めるほど大きな障害が現れ、それを押し除けるための「学び」が筋力となる。

自由はゆっくりと花開いていくものなのだ。

そして、自由になれたと思ったらまた不自由になる。獲得した自由に飽きてしまって、別に自由を欲してしまうから。

ところで他者関係は自由を制限するものである。5歳児といることはわたしが不自由を強いられている状態でもあるし、例えば他人から給料をもらうと頭が上がらないし、学校や職場では自分の自由を侵害するパワハラもある。結婚して共同生活をすることは毎日が濃厚な関わりになるから自由にはなれない。トイレひとつ考えても順番待ちが生じる。

だから、できるだけ他者関係を少なくして、付かず離れずくらいで必要最低限な関係がいい。

そう考えると、毎日同じ人間に会う職場や学校、家庭というのは異常な環境であり、いじめが起きるのも諍いが起きるのも当たり前の結果だと言える。

人間関係など、会うのは多くても1週間に一度まで。理想は半年か一年に一度。それくらいがいい。

自由とは獲得できるものではなく、グラデーションなのだろう。空気をすべて吸い込むことができないように自由をすべて手に入れることはできやしない。

ただあるのは自由の濃度であって、空気が薄ければ呼吸が苦しい、そういうものだろう。

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