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幸せは自分でやらないと手に入らない。

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結月でございます。

どこかの調査で日本の独身女性の幸福度は世界的にも高いけれど、既婚となると世界的に低くなるというのがあった。

調査の正確性はよくわからないにせよ、肌感覚的にはそこそこ納得できると思った。

ジェンダーの平等などリベラル派は主張しがち。しかし、今の日本はそこまで女性が悪い立場にあるようにも思えない。賃金の格差はあるかもしれないとはいえ、ある程度の高所得者層になると女性でもいい給料はもらっている。男女格差があるのは企業的な問題というより、社会的な感覚かもしれない。

日本は女が育児をする風潮がまだまだあって、男が育休を取ることはあまりない。これを不平等というのはちょっとビミョーなところで、男が会社で働いて、女が家にいられるというのは男の側から見れば自分が損をしていると思うだろう。

会社で嫌な思いを毎日し、顔を合わせたくない上司や面倒な仕事のせいでものすごいストレスである。女が家にいるという日本的風潮は逆を言えば男が稼がなければならない負担であり、男のほうが立場が厳しいとも見ることができる。

女のほうもじゃあ亭主が育休を取って自分が出勤すると言えば、

「いやいやいやいや、ちょっと待ってよ。あんたに子供は預けられないわ」

と、女が家にいようとする。

そういう社会的な慣習があれば、男に育児をしろと言っても進まない話で、男が会社で楽をしているわけでもあるまい。

そう言えば、先日、うちの4歳児とフードコートでちゃんぽんを食べていると、その隣の席に家族連れがやってきた。若い女房は無料の水を取りに行こうと亭主に、

「水いる?」

と、尋ねる。しかし若い亭主はスマホでサッカーゲームに夢中である。二人の子供と女房は食事をし、亭主はゲームをやり続けている。

これを見て、それほど遠くない将来、離婚か別居だな、と思った。

亭主にとっては休日はやっと嫌な会社から解放されて、大好きなサッカーゲームをやれる時間である。これが生きがいなのである。ゲームをやるのが最高の息抜きで、幸せなのである。家族が前にいても関係ない。俺は疲れているんだ、日々の会社で。

それは確かにそうだろう。女房が仕事をしているかはわからない。となれば女房が子供の面倒を看て、家事もしているのだろうか。

労働的には内容が違うだけでどちらも同じだとも言える。会社の労働か、家の労働か。女房が家で一休みしているときは亭主は会社で働き、女房が水を汲みに行くときは亭主はゲームをする。

きっと総量は同じである。ただ、家族無視でゲームに明け暮れるのは心象が悪い。ここはゲームをやめるのが得策であるが、それができるかどうかは人間性というか教養の水準であろう。

ともかく、今の日本は亭主と女房でどちらかが明らかに楽をしているという事例はそれほどない。なぜなら、日本の経済状態が良くないからで、所得は上がらないままで、それはつまり可処分所得も余裕がない。

亭主ががっぽりと稼いで、旦那さんATMで女房は有閑マダムなんて話はバブルの一部だけであろう。

つまり、日本女性が婚姻後に幸せを感じられなくなる理由のひとつはここにある。

独り身だと金も好きなように使えたのが婚姻後はそうはいかない。亭主という他者関係、子供という他者関係が生じるから好きにはできなくなる。つまり不自由になる。

独りであれば相手がいないからムカつくことは生じ得ない。だから幸せでいられる。

日本はリベラルや左派が目くじらを立てるほど差別的な社会ではない。ありはしても外国ほどのものはない。

アメリカなんて人種差別がガチだし、中国は都会の戸籍と農民戸籍とで生まれながらにして差がある。フランスを見れば「自由・平等・博愛」は嘘だと思えるほど移民への差別があったりもする。

普通に独りで生活するには日本は世界水準的にはそこそこいいポジションにある。

露骨な差別はないから、自分が思いついたビジネスだってとりあえずは始められる自由はあるし、どうにかしようとすればどうにかなる。

つまりは幸せはどうにか得られる環境にあるのである。

さて、ここで「幸せ」という言葉が出てくる。

「幸せ」とは何か? これは大変難しい問題で、定義できそうでできるものでない。おそらくは自己充実度の高さであり、それは人それぞれであるから定義しにくい。

定義しにくいものを漠然と求めている。そういう人が多い。

ちなみにわたしは幸せなんてものを考えたことがない。求めたことがない。アホらしいと思っているから興味がない。

だから、結婚して幸せになりないなんて言う女に出会うとびっくりするというか、違和感があるというか、こいつアホやろ?と思う。

ところでわたしは幸せなことがあった。それも最大級の幸せで満ち足りた。

それは公演を終えたことによるもので、自分が企画した公演をコロナ禍の真っ只中で突き進み、公演当日は演奏が歴史的名演と言えるほどのもので、そんな公演が終わったとき、

「たまんなく幸せだ…」

と、そう感じた。それは今も体に響いていて、公演が終わって2週間経つがわたしは幸せを感じている。

しかし、公演を終えるまでの日々は辛く、毎日が緊張して、苛立ち、不機嫌で、思うようにことが進まないストレスでとにかく苦しかった。

自分で始めたことにこんなに苦しい思いをするなんて愚かだなと思いつつも、やらなきゃよかったとは一度も思ったことがない。やりたいことをやったら強烈に苦しかったというわけである。

そうした経験は過去にもあったが、毎度思うのは、幸せとは自分がやりたいことを苦難の中で突き進んでこそ得られるものだということ。要するに受験勉強みたいなものである。

成し遂げるために自分が一生懸命やって、うんざりするほどやって、もう駄目、死にそうと本気で感じるくらいまでやって、そしたら成し遂げられたときにやっとのことで幸せが訪れる。

だから結婚して幸せになりたいなんて他人の存在に任せるような行為は幸せを生ないのである。

日本の女が結婚したら幸福度が下がるのは、もしかして結婚に対しての考え方がまずいのかもしれない。

第一、他人と生活することに幸せがあるわけがない。これははっきりと小室眞子に言ってやりたい。

他者というのは面倒を起こすものでしかない。他者がいなければ存在しえないトラブルが他者と生活することで生じてくる。

だから、他者関係がある中で幸せは成立しないのである。性的な快楽などそうしたものは一時的で一過性のものでまやかしの幸せ。

自分発のものを自分でやり遂げること。ここにしか幸せはない。

しかし、幸せを目的にしてはいけない。幸せを得たいから何かを始めるでは本末転倒であり、うまくいくわけがない。

幸せのことなんて一切考えない、興味すらない。そうした中で自分がやり遂げたいものが生まれ、それに対して一生懸命になり、過酷な苦難を乗り越え到達する。そこに青い鳥はいる。

青い鳥は身近にあるものだ。それはすなわち自分である。

幸せがほしければ、幸せなんてことを考えないに限る。幸せを求めるとその真逆にある不幸せという概念が襲ってくるから。

だから、幸せになりたいと思う人に限って不幸そうにしている。

ゼロからは何も発生しない。幸せを思う気持ちがゼロなら不幸せは発生しない。

自分が不幸でたまらないと思うのは、それは自分が幸せなんて都合のいいことを求めているからではないか? 不幸な人は自らを不幸にしているから、ずっと不幸なものなのである。

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