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応援の気持ちこそがいい商売を生み出す。

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結月です。

栃木に来て3年間、スキンケアを疎かにしていたお肌的どん底から、アタシの癒しの場、資生堂カウンターで久しぶりに化粧水諸々を買い揃えて意識高い系に復帰したわたし。

2週間近く朝晩、きっちりと資生堂リバイタルでケアしたら、その効果はちゃんと現れてまだ最善ではないにせよ、お肌レベルは復調。スキンケアはなんと言っても「継続」が大事。

お肌をちゃんとやろうという気になっているのは仕事面でもテンションが上がっているからで、ほとんど人に会うことがない栃木生活では「顔」は重要でないにせよ、気分的に前向きで「いい感じ」なときは顔に艶を求めたくなる。

と、かなりの頻度で行く宇都宮のショッピングモールにある資生堂は百貨店ほどの品揃えではないけれど、リバイタルを頂点にして普通に使えるものは揃っている。

資生堂のカウンターは、行きつけだった銀座松屋のときからガチレズなわたしにとって心地の良い場で、女ばかりでよろしいのである。

資生堂は銀座松屋でなくともどこに行ってもしっくりとくるから、当然、宇都宮であっても同じ。先日もちょっと顔を出したが、うちの5歳の愛娘もすっかり美容部員に懐いている。大きくなったらもちろん資生堂を継承させる。

と、本格的にお肌意識高い系に復帰したわたしは、週に一度は行く宇都宮東武百貨店の資生堂にも顔を出してみようと思っている。デパートでしか扱っていないブランドもあるからであるが、資生堂であれば一度行くだけでそこの美容部員とマブになるという得意技を発揮する。

人と仲良くなるのは何よりも「愛」が不可欠であり、わたしには資生堂愛があるから初対面でも愛全開。

さらにそれは一途な愛であり、数ある化粧品会社でも資生堂以外は一切行かない。資生堂以外はこの肌には触れさせない。資生堂のロゴを愛していて、資生堂の商品を愛していて、資生堂の美容部員の制服を愛していて、資生堂カウンターの最前線で働く美容部員を愛している。

だから資生堂カウンターの椅子に座ると「帰ってきた感」があって心地いいのである。SHISEIDOと書かれたユニフォームを着た美容部員と話すだけでわたしは上機嫌。

特にわたしはデパートの1階にある化粧品コーナーが好きで、そこにはたくさんのブースが立ち込めているが、化粧品の匂いが混ざり合っている。さらに働く美容部員も訪れる客も女のひとばかりであるから、女の匂いが濃厚に漂っている。ガチなレズなわたしは深呼吸したくなるほどその匂いが好きなのは子供の頃からだが、さらにその煌びやかな混沌の中に資生堂とクレ・ド・ポー ボーテのロゴを見るとわたしのハートは、

「うれしくて、バラ色」

なのである。

とはいえ、現実は女ばかりの客、女ばかりの職場はなかなか過酷であろうと察するも、わたしは現場に立つ美容部員たちを応援する。

さて、応援する気持ちっていうのはいいものだなと思う。

それは相手のことが好きだからであって、エネルギーを与えることができるから。

プロ野球のファンなどわかりやすい例で、真夏のクソ暑い日でも好きな球団を応援するために球場まで出向き、声援を送っている。そんな応援がなかったらプレイする選手たちも力が出ないわけで、去年までのコロナはそんな無観客で気の毒だった。

応援したくなるということは好きである対象があるわけで、好きなものがある精神状態はエネルギッシュになれる。そして応援は自分のエネルギーを出し惜しみなく相手に与えるのだからいい。

思えば、成功する企業、事業などは何かを応援したいエネルギーがあるのではないか。

食品開発にしたって、それをおいしく食べてもらうことで消費者の生活を応援したいという気持ちがいいものを作らせる。

人を貶めようとか、悪どく儲けようとか思うと応援からはかけ離れていって、いい品質なものはできあがらない。

応援の気持ちこそがいい商売を生み出す。

しかし、応援するというのは変な下心がないからいい。純粋に好きだから応援できる。さらに応援されるとうれしい。

ただ、応援してもらうには一生懸命やっていないと応援してもらえない。やる気のない奴を応援する気にはなれないし、応援したって無駄だと思うから。

受験だって真剣に勉強している人は応援しがいがあるが、怠けてばかりなのは応援しがいがない。

とまあ、事業だって「応援」がキーワードだということに気づく。

お客さんからお金はもらうけれど、その対価以上の応援があればお客さんはお金を払った以上のものを得られる。

さて、やってはいけないのは戦争の応援である。

戦争は敵味方など二元論で見てしまいがちであるが、戦争は二元論という単純な構図では起こらない。複雑な要因が絡み合い、どちらがいいか悪いかも特定できないようなところから発生する。

たとえ大きな要因があったとしても、要因はそれだけでない。小さな要因が最たる要因になることもあり、戦争は善悪に分けられない。また見る方向、つまりどちら側から見るかによって同じ現象でも真逆に見える。

つまり世界は二元論では捉えきれず、そもそも世界すべてを描くことも分析することもできやしない。ただ現象が起こっているという事実だけである。

二元論的な善意で戦争を応援すると相手側の誰かを殺すことになる。その死を歓迎することになる。

と同時に戦争は応援しなくとも人が死ぬ。

しかし、戦争の応援は死の促進であるとも言える。

応援とは人の死が関わらないポジティヴなものに対して行われたほうがいい。

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