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どうでもいい話

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結月でございます。

朝マックに新メニューが出ていて、それは「ダブルソーセージマフィン」というもので、つまりダブルチーズバーガーのソーセージマフィン版ということ。

メガマフィンとは違うのは、目玉焼きが入っていないという点。

ソーセージマフィンを愛するわたしは早速注文して食べてみた。

しかし、余計なことをしていて、そこにはケチャップが注入されていた。

わたしはメガマフィンが嫌なのはケチャップが入っているところで、どうしてああいう余計なことをするのだろう? ケチャップの味が強すぎて、ソーセージの味がしない。この愚行をダブルソーセージマフィンもやらかしてしまっていて、まるでおいしくなかった。

やはり、シンプルなソーセージマフィンがいい。ソーセージの味とチーズの風味が程良くて、塩味もわかりやすくおいしいのである。

と、そんなどうでもいいことを話してみた。しかし、朝メニューで朝からガッカリというのは嫌なもので、明日はリベンジとしてノーマルのソーセージマフィンを頼もうかと思う。

二日連続でマックなんか食べなくていいのに、このやるせない気持ちを処理するにはノーマルのソーセージマフィンを食べ直すしかない。

ところで、ソーセージマフィンにもチキンクリスプマフィンにも、実はキムチがよく合う。

それぞれを食べつつ、キムチを箸でつまみ口に放り込むとナイスなテイストになる。

なんてくだらないこと話してるなと思う日常。

くだらない話を続けると、栃木に来てまもなく3年近くになるけれど、栃木には美人がいない。本当にいない。3年近くの間に栃木では美人を一人も見たことがない。マジでいないのである。

わたしは耽美主義で、面食いで、ガチレズで、美人が大好き。今日日、美人だとか不美人だとか言うと批判されそうな個性尊重な時代であるけれど、わたしが美人が好きなのである。

時代がどうであっても、美というものは存在するのであって、それは否定できない。美は在るものであるから、栃木には美人が存在しないも成立する話で、個性尊重と美とは相入れない。これらは別の次元の話であって、ごっちゃにしてはならない。

美というものは残酷なもので、美しくないものを全否定する。

メイキャップアーティストだって美を求めて生きていて、美しくないものを見ればガチギレするだろうし、わたしは着物を仕事にしていて、レンタル着物店にある劣悪な着物もどきを見るとカッとなる。

音楽家が拙い演奏をした弟子や生徒に向かって指揮棒を投げつけたり、弓で叩いたり、罵声を浴びせたりすることがあるのは、美しくないものへの拒絶反応である。しかしながら、そんな暴力的な音楽家は今はそれほどいないかもしれない。それは不美人を不美人と言いにくい時代と同様で、拒絶反応を起こすと先生のほうが悪く言われるから。

しかし、いくら時代がそうであっても美とは残酷なもので、美しくないものを全否定するものなのである。

すなわち愛と美は両立し得ない概念であり、今はどちらかというと愛の時代なのかもしれない。

しかし、それが本物の愛なのかは疑わしい。人を傷つけまいと自己主張を抑えて、相手に嫌われないように振る舞う。そうなると愛ではなさそうである。

とは言え、美しくないものを全否定するくらいの美がなければ、製品もいいものは作れない。美の追求は優れた製品をプロダクトすることに似ている。

メルセデス・ベンツの「最善か無か」という思想は、究極的な美意識をプロダクトに落とし込んだものである。

とにかく栃木には美人がいない。

3年近くもこちらにいると栃木の顔がわかってくる。

地域には顔の特徴が集約されるもので、それは遠く遡れば縄文人なのか弥生人なのか、みたいな話になってくる。その土地のルーツは必ずあるものであるから。

栃木に美人がいないのは、顔の特徴として目が大きくないことが挙げられることがわかってきた。

目が大きいことは現代の美人の条件であり、だからこそ、プチ整形で目頭を切って大きく見せる人が多い。

あとは垢抜けていないというか、栃木はファッションを見てもかなりひどい。本気でひどいと思う。

このセンスのなさというか、このダサさはなんなのだろかと社会学的な対象にしたくなるほどで、それは文化が洗練されていないことにも関係するのかもしれない。

田舎だからということもあるにはある。なぜならファッションとは対人関係が多くなればなるほど、密になればなるほど洗練されるもので、人に多く会うと自分のルックスを気にするものだから。

しかし、わたしがいたことがある熊本も田舎であったが、熊本は土地柄美人が多いだけでなく、ファッションもそんなに悪くない。都市規模は宇都宮とそれほど変わらないのだけれど。

もしかして歴史的に主要都市であったかが理由にあるのかもしれない。

熊本は一応、九州では2番目の位置付けで、古くは細川藩もあり、大きな政治があった。それゆえにか地元の文化もあるのだけれど、その点において栃木は乏しい。歴史的にもあまり大きな政治はない。政治がないところには文化は栄えない。

京都が日本の文化として名高いのは、京都が都であったから。政治は都市を生み、そして文化が求められる。

料理文化を見ても京都は京料理なる恐ろしく洗練されたものを生み出している。料理が文化としてどれだけ栄えているかは文化のバロメーターとして最もわかりやすいものかもしれない。

田舎料理と称されるものは、田舎らしさであって、洗練というよりは素材を荒っぽく楽しむといった形になる。

しかし、栃木の料理文化は低いと言わざる得ない。ちょっとひどい。まるで下宿を始めた学生が作り始めたメニューのようである。まるで洗練さがない。

ただ、蕎麦だけは別格で、栃木の蕎麦は最高水準にある。

とまあ、栃木には美人がいない理由をいろいろ考えてみた。

でも、やはりどうでもいい話で、世の中が美人を求めているわけでもなし、美人がいなくてもなんら困ることもない。

今は性格重視の時代であるし、美人かどうかは重要視されないのである。

美人は三日で飽きる。なんて言われたこともあった。確かにそうかもしれないけれど、それは美人と日常生活を共にした場合であって、美人とはちゃんとメイクして、センスのいい服を着て、美人が美人である状態のときだけ会っていれば三日で飽きることはない。

それより馬鹿は三日で飽きるというのはある気がする。こういうことを言うとまた怒られそうな時代ではあるけれど、あまりに中身が空っぽだと話す内容が続かないから飽きる。

人から飽きられないというのは、絶えず新鮮な知識や情報を取り込んで生きることで、会うたびに新しくなっている人は飽きない。

だから、もともとすごく勉強した人であっても、ある時期から新しい情報を取り入れなくなってしまうとただの古臭い人間になってしまってこれまた飽きられる。

常に最新情報がいい。

いやいや、最新どころか、未知の未来を先取りするくらいがいい。

美人は肉体的なものだから、どんな美人だって加齢で衰えるけれど、頭のほうは最新状態でいようと思えばできる。それをしないから古臭い人間になるだけであって。

古臭い人間にならない術は、好奇心。好奇心があれば古くはならない。

さて、どうでもいいことを最後に言うと、わたしがすごく好きなのは、ファーストサマーウイカである。ものすごく頭が良くて、話がおもしろく、飽きることがなさそうだから。

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