結月でございます。
今日は『バイオハザード』の4作目を観てみた。しかし、冒頭からいきなりマトリックスのパクリで萎えてしまった。パクリというかコピーだけれど、あれ、許可を取ってやっているのかな? 音楽まで同じようなもので、さすがにあれほどコピーとなるとマズい気がした。
スタッフがマトリックスと同じとか、ちょっとそのあたりのことはわからないが、手続き的にはちゃんとしているのかもしれない。そうでないと訴訟になりそうなほどの「まんま」。
ソンビから逃げる演出もエイリアンの「まんま」は時効だとしても、映像的には「まんま」過ぎておもしろくなかった。
さて、保育園がない土日は、ミライースで宇都宮のショッピングモールまで5歳児と行ってみたが、燃費はリッターあたり26キロを記録し、
「ダイハツ、すげー」
なんて思った。
しかし、時速80キロあたりで、突如尖った音で警告音が鳴り、
「スピードの出し過ぎに注意してください」
なんてアナウンスが出る。これがかなりわずわらしく、いきなり鳴るアラームでむしろびっくりしてしまうから、余計に危ない。
宇都宮までの鬼怒テクノ通りは制限時速80キロなのである。だから余計なこと言われたくなりのにうるさいったらない。
と、これをダイハツに電話して訊いてみたら、クルマにはそんな機能はつけていないとのこと。つまりこのうるさいのはデンソーのドラレコであったのだ。
エンジンをかけても電子音の挨拶がうるさいし、エンジンを切ったら「運転お疲れ様でした」とかうるさい。
近所のコンビニに行っただけで、わざわざ「運転お疲れ様」なんて言われるとウザったくてたまらないのである。
と、そんなわけで夜、宇都宮からミライースを走らせるが、CDはどんなサウンドだろうとモーツァルトの交響曲第39番をセットしてみた。
やはり安物の軽だけあって、オーディオはイマイチで、メルセデス・ベンツのオーディオとはかなり違っていた。しかし、わたしはオーディオマニアでないし、聞ければ十分としか思わず、大して気にしない。
夜のドライブでモーツァルトを聴くのは実に官能的で、いい時間なのである。
わたしはコンサートを仕事にして以来、普段はすっかり音楽を聴く気がなくなってしまい、音楽から遠く離れた日常を送るようになったのだけれど、たまに夜の時間、クルマを運転しながらモーツァルトを聴くと心地いい。それなのにいきなり警告音が鳴って、
「スピードに注意してください」
なんて言われるものだから、興醒めもいいとこで、こういうドラレコを設計する人間というのはまるで文化がないのだろうと察する。
助手席に座る5歳児は、
「うるさくてモーツァルトが聞こえない」
と不満を漏らし、必死にトークをしているときにまた警告アナウンスが鳴ると、
「話してるときにうるさいー」
と、ちょっと苛立っている。
どうもわたしに似ているようだが、これは遺伝のせいか、一緒にいる時間が長いから同じようになったのかどちらであろう?
とにかくあまりに鬱陶しいので、ドラレコは外してしまおうかと思ったりもする。
しかし、ドラレコもだし、日本の自動車もそうだし、どうも文化が欠落している気がする。日本の自動車産業に文化的な色気が感じられない。きっと文化のない人間がそこに就職し、文化のない企業文化が広がるのだろう。
メルセデス・ベンツは文化的なものが走りに感じられる。ベンツには自動車工学だけでなく、宗教家、哲学者、文学者、芸術家などあらゆる専門家が所属しているらしく、人間を総合的に捉えてクルマ作りしていると聞く。クルマを文化と捉えているわけで、さらに言えばクルマを運転することが文化的生活と考えているのだろう。
日本は本当にそこが乏しい。だから燃費のことばかりだし、クルマの作りもどんなクルマを作るか?ではなく、会社としてのコストから入っている。それでは色っぽいクルマはできやしない。文化のないサラリーマンが作ったようなクルマが多い。
それはクルマだけでなく、例えばマンションなんかもそうで、日本のマンションの安っぽさ、間取りのダサさ、それらは文化のないサラリーマンが作ったという感じで、大手ゼネコンのサラリーマン的な臭いがする。
そんなマンションを買うなんてアホじゃないかと文化を基準にするわたしは考えるのだけれど、それを買うというのは買う側にも文化がないということだろう。
サラリーマンには文化は作れやしない。日本はサラリーマン率が諸外国に比べて異常に高く、サラリーマン国家なのである。
さて、世間ではオミクロンが急増中であったり、津波があったとか、大学共通テストで人が刺されたりといろいろあったらしいが、栃木の田舎にいてそんなリアリティがなく過ごしている。
コロナにしたって、愛娘以外は人とまともに会って話すことが皆無で、平日は猫と引きこもっているし、日本語を忘れそうな有様で、うつされるような環境にない。
それがいいのか悪いのか、まあコロナ的には人との接触がないからいいことと判別されるだろうし、仮にまだ東京にいたとしても濃厚接触な着付けを大々的に宣伝するムードにもならないからお客さんも来ないに違いなく、それなら金がかからない栃木にいることはラッキーだとも言える。
そう言えば、今日知ったのだが、江原啓之さんも2年前に東京から熱海に引っ越したらしい。東京に拠点を置かないようにした人の話はそこそこ聞くようになった。
となると、ますます東京はサラリーマンしかいない場所になるのだろうか。
しかし、栃木は栃木を相手にして商売をする気分にならず、それはわたしの波長が栃木の人をお客さんにすることと合わないからで、やる気が起こらないというか、自分が場違いだと感じる。要するに田舎育ちでそのまま田舎にいる人を相手にする方法と感性がわたしにはないのである。
やはり東京にいる人が相手でないと波長が合わなくて、どうにもこうにもなのである。
しかし、それも昔の話で、時代はどんどん進み、変化していくから、今の東京だと別の意味で波長が合わないこともあるかもしれない。銀座に店を出した17年前は波長がよく合っていたが、少しずつそれも失われていったと感じていたから、時代の変化だろう。
それだけ東京が力を失った証でもあり、いやこれは日本全体が元気でなくなっているのかもしれない。
さて、明日はやっと保育園が始まる愛すべき月曜日で、まだ組み立てていないエアロバイクを開封することにする。
コロナの感染リスクがほぼない生活をしていても、運動不足で体が弱体化しているのでは考えようによってはコロナに罹るよりもひどいものだから。