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パラリンピックはよくわからなかった。

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結月です。

パラリンピックが終わったらしい。らしいというのは、それほど見てないから、閉会式もいつだったのかよく知らない。

とは言え、テレビで競技をちょっと垣間見て、それは走り幅跳びだったり、競泳だったり、車椅子の400mだったりした。しかし、どれも長く見ることはなく、ちょっと見てはチャンネルを変えてしまった。

それは単におもしろくなかったからであり、おもしろくないと思ったものはどんな番組でもチャンネルは変えるか、テレビを消す。何もパラリンピックだけの話じゃない。

肉体に障害があるから、同じ種目でもオリンピック選手とはスピードも遅かったりで、そこにテレビのリポーターが必死に盛り上げようと大声で実況していて、ちょっと気の毒に思った。そんなに騒ぐほど泳ぐスピードだって速くない。つまり、見ている側は冷静沈着であるのにリポーターはものすごく興奮しているように実況しなければならない。

走り幅跳びは片足がない選手がカーボンファイバーの義足をつけて跳躍する。今の義足の技術ってすごいと思わせるほどのジャンプをして、8mとか飛んでいる。これはオリンピックの記録と同じくらいじゃないかと思った。

カーボンファイバーで飛ぶのだから、そりゃ人間の脚よりかは反撥力はあるのではないかと推測したりする。そして、あんなに思い切り跳んで義足がまったく外れないのはどういう仕組みで装着しているのだろうと、ものすごく興味が出てネットで検索してみたがよくわからなかった。

でも正直言って、カーボンファイバーの義足で走り幅跳びをして8mを跳んでいる風景には感動はしなかった。気持ちが客観的になって、心が同調しなかったのである。

今はなかなか大きな声でこういうことは言えないのかもしれないけれど、きっとそう感じた人は多いに違いない。だから視聴率もオリンピックとは比較にならない。

なぜパラリンピックがヒートアップできないかというと、それはわたしが五体満足で生まれ、特に障害なくここまで来ているから。

つまり、片腕がないこと、片足がないこと、両足がないこと、そういうことがリアルに、等身大として、その感覚がわからないからである。

オリンピックであればよくわかる。

100m走は中学生の頃に体育の授業で走ったことがある。運動会でも走った。だから、100mを走るのに10秒もかからないなんてことがいかにすごいかがよくわかる。

わたしは金槌で泳げないけど、水泳の授業は高校のときにあってまるで泳げず、受験勉強をしたいのに夏休みにプールの補講を受けさせられ、今でも水泳には恨みを持っている。泳げないのに泳がせようなんて今で言うパワハラみたいなものだし、そもそも泳ぎが嫌いだから川でも海でも最初から泳がないから泳げなくても困りはしない。そんなものに時間をかけさせられ、屈辱的な水着なんか着せられ、泳ぎを強要されたのだから恨むのは当然である。

とまあ、そんな経験もあって、水で泳ぐという運動がいかにハードで、生半可なものでないことはわかってる。だからオリンピックの競泳を見ると、

「すごい人がいるもんだ…」

なんて思い、水泳を見るだけにおいては共感できる。

あとは一応ソフトボールも学校でやらされたし、野球もそう。サッカーも卓球も授業でやったことはある。バスケもあるし、バレーボールもある。走り幅跳びも棒高跳びもやったことはある。

だからオリンピック選手の超人技を見ると、自分の体験と比較してリアリティを感じるわけで、

「すげえなぁ…」

となるわけである。

しかし、片足がなくてカーボンファイバーで跳躍することは経験がないからわからない。腕がなくて泳ぐ感覚は想像はできてもやっぱりわからない。

目が見えるから、目が見えない人がボールをキャッチしたり投げたりするリアルがわからない。

車椅子そのものに乗ったことがないから車椅子でテニスをしたり、車椅子でバスケをすることがどんなものかが肉体的に自分には無経験でよくわからない。

実体験としてのリアルがないからパラリンピックを見ると、その障害を想像して脳内変換しなければならないから感動に至らないわけである。

要するに等身大のものがない。

等身大のものを感じないとなかなか心には響かない。それはどこか遠くの国で虐殺があってもよくわからないし、知らない国で地震があっても共感までは持ちにくい。よくわからないけど大変そうだという漠然としたもので、

「ふ〜む…」

と、なんとなくその悲劇に憂鬱になりながらも、心には響かない。

知らない国には行ったことがないし、知り合いもいなければ家族もいない。アフリカの紛争地で虐殺があり何万人もの人が殺された事実よりも自分の身内が交通事故に遭ったほうが動揺する。

そんなことを思いつつパラリンピックを垣間見て、その障害に同情するのもいやらしいし、賛美するのも偽善的だし、自分は感動してないし、どうすればいいのかよくわからない気持ちになってテレビを消してしまう。

でも、もし自分が何かの事故で片足がなくなったり、片腕がなくなったりするとガラリと見方は変わるだろう。

車椅子で生活すること、車椅子で動くことがどれほど大変なものかを知り、腕がなくなってしまった絶望の中でパラリンピックで選手たちが片腕がなくとも泳いでいたり、車椅子でテニスをしたりするその姿を見ると、きっと感動し、絶望から救われるだろう。

でも同時に障害を持ってあんな競技に没頭できるのは一部の人だけであり、金銭的な援助が豊富でないとあんなすごいカーボンファイバーの義足なんて買えやしないだろうし、むしろその恵まれた環境にルサンチマンを感じてしまうかもしれない。

しかし、考えるとオリンピックもパラリンピックも肉体的条件が異なるだけで、テニスがしたい、卓球がしたい、走り幅跳びをしたいという競技への強い気持ちでそれをやっているという点でどちらも差がないのだろう。

ただ観客としてパラリンピックの場合は障害の体験がないがために等身大になれないのであり、リアリティを自分の肉体と同調させられないからなんだかよくわからないとなるだけなのだ。

オリンピックでフェンシングを見ていた。ルールも全然わからない。やったこともない。おそらくは剣先が早く相手の体に突いたほうが勝ちなのだろう。でも、フェンシングは等身大になれる材料がわたしの経験の中にないからさっぱりおもしろくなかった。日本が金メダルを獲った瞬間も見たけれど、

「やったんだね」

というちょっと冷めた感覚。少し感動したのは日本が金だったという事実で、それはわたしが日本人であるから、日本の選手に対して等身大のものを感じられるものがあったせいだろう。

何事も人間は等身大であるかどうかなのだ。

自分が等身大に感じられるものが多ければ多いほど、何かに対して感動する数が増える。

わたしは体力がなくて運動音痴で肉体的持久力がまるでないくせに山登りを始めた。始めたと言っても年に2度ほどしか登らないど素人であるけれど、山に登ってみてこれほどキツいものなのかと実感する。すると、たまにテレビでやっている山登りの番組を見ると思わず見入ってしまう。

南アルプスなどとてつもない山に登る映像などを見て、

「こんな山、登るなんてすげーな。でも、自分の登れたらな…」

と同調する。

それは山の過酷さが自分にとって等身大になっているからで、そこに感動が生まれるのである。

だから趣味でもなんでもいいから、自分が楽しいことをやってみて、それを等身大にすること。そうすると共感できる分野が増え、世界が広まる。

仕事では等身大の感動は得られない。なぜならそれは仕事に過ぎないのだから。

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