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公演とは孤独なもの。

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結月です。

今日の公演の業務。いろんなところからいろんなメールが来て、その案件を熟考したりしながら結論を出して返事をしたりなどなど。

今は広告宣伝の案件が多いので、すなわちこちらから金が出るものだからちょっと考えなければならず、それが効果的なのかどうか、費用対効果が優れているのかどうか、希望的観測の気持ちが自分の判断に混ざっていないかなどを考える。

こればかりはギャンブルみたいなところがあって、広告効果とはやってみなければわからない。だから、広告を掲載する媒体はそれで効果がまったくなかったとしても金は取るわけである。

そんなギャンブル的な賭けであるから、どこにどれだけゴーサインを出すかはを決めるときは懐をえぐられるような気持ちになる。それでもここは勝負しないといけないから「バンッ!」と賭ける。

公演に関しては合理的に進めているものの、広告だけはギャンブル。どこそこのメディアは部数はあっても購読者に文化系は少ないなど、まるで競馬や競輪の予想紙を見ながら予想するかのよう。

とにかく広告媒体は玉石混交で、紙媒体はまだしも、ネットメディアはカッコよくできていても実はただの情報寄せ集めサイトだったりもする。しかし、紙媒体は年々、力を落としているから老舗に見えてもまるで売れていなかったりで、公開される実売数が怪しいこともある。

紙媒体もネットも良くも悪くも状況は変化していて、たった数年前で状況が変わっている。

そうは言っても、新しい仕組みが広告分野に現れているわけでなく、同じ仕組みがごちゃごちゃとしていて、要はハブがない、分散型になって薄く広くというイメージ。

こういうのもポストモダンのさらなる進行なんだと思いつつ、どこの媒体を使うかなど吟味する。

しかしまあ、複雑で希薄というのが今の社会の特徴であろうか。それを多様性、ダイバーシティと呼ぶのかもしれない。

ところで公演をやるというのは一口に言って、孤独。孤独に尽きる。

これが大きな音楽事務所だったり、プロオケの事務局だとまた違うのかもしれない。でも、それは孤独が見えにくいだけで本質的には孤独だと思う。

演奏者は音楽のことを懸命にやってくれるから任せられる。任せられるからこそ、それはわたしとは関わりがない別のものであり、仕事内容として分断があって実務として何か一緒にやるわけでない。

要するに公演を統括するのは責任者の一点にあるので、だから孤独になる。

広告媒体の担当者もこの公演に関して仕事をしてくれると言えばそうだが、それはこちらが金を払うからこその付き合いで、いい仕事をしてくれても孤独が解消されるような関係でもない。

孤独が解消される気持ちになるのは公演にぜひ行きたいとチケットを買ってくれるお客さんが連絡をくれたときで、それが人肌となって温かく感じる。

しかし、その温かさも束の間で、座席表の残席を眺めるとまた孤独な気持ちになる。

きっとこれは選挙に立候補する政治家と同じようなもので、投票しますよと言われれば心の底から嬉しいし、しかし開票するまでは結果はわからないから気が気でなく、そのとてつもない不安があるからこそ、政治家は恥じらいもなく選挙カーで大声を出すことができる。

それでもやはり孤独で、周りに支持者たちが選挙運動を手伝ってくれても、結局のところ当選しないことには孤独だろう。当選してやっと孤独から解放される。

結果がすべてであることは当事者は孤独なものだ。

おそらくオリンピックに出場する選手も同じで、結果が出なければ孤独であるから必死にトレーニングをし、結果が出なければひどく落胆する。

メダルを獲って泣いて喜ぶ姿は、嬉しさというより孤独からの解放の喜びではないか。

つまり、孤独を解消するのは誰かがそばにいるなんていうことでなく、自分の戦いに自分が満足できたその地点にあるのであり、なぐさめの言葉も、おべんちゃらも自分以外のものでは孤独は解決できない。

では、なぜそんな辛いことをやるのか?

それは簡単で、

「やりたいから」

やりたいからやる。説明できる理由なんてない。理由以前の根源的な熱意で、やりたい理由なんて考えない。しかし、やらないことを後悔したくない。だから、勝負に出る。

オリンピック選手だってみんな、その種目をやりたいからやっている人たちばかりだ。やらされてあの場に到達した人なんていやしない。その種目を続けたところで、体が変形するほど厳しいトレーニングを積んだところでそれが金になるわけもなく、でもやりたいからやる。泳ぎたいから泳ぐ。走りたいから走る。卓球をやりたいからやる。

公演だってそうで、やりたいからやる。やりたい公演しかやらない。

ここがきっと演奏者とは違うところだ。演奏者はオファーを受ける身であるから、自由に見えて完全な自由ではない。

しかし、公演の企画は自由である。妄想を現実にしてしまう自由がある。きっと自由であるから孤独なのだろう。

公演とは芸術なのである。結果的にビジネスになっているだけで、それは芸術空間をコンサートホールに創る芸術。

音楽そのものが芸術でありながらも、それは公演という空間ではひとつのパーツであって、その日、そのホールの中で観客と共に巨大な音楽空間が生まれる。その「現象」こそが芸術なのである。それを統括することは空間アートに他ならない。

ホールで起きている事象が芸術。それがより高いものになるには最高の演奏、そしてたくさんの観客、さらにそこにいるすべての人の精神がエネルギーを伴った色彩になり、感動の渦が起きてしまうことが芸術。

それは壮大な絵画のようでありながら、終演を迎えると霧散する。次第に無に帰る。

しかしその無は公演前のものとは違う。明らかに異なる無。言ってみれば、感動の残り香がある無である。

そこを目指して公演を進める。

そして、公演が終わってしまうと今度は寂しくなる。

演奏を終えて打ち上げをして、演奏たちがそれぞれ帰路につく。みんなバラバラになっていく。

「おいおい、帰っちまうのかよ…」

という気持ちになって寂しい。

公演とはそんなもの。

絵画と違って、物質としては何も残らない。

再現不能の一度だけの空間、時間、サウンド。

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