結月でございます。
銀座に店を出す前、いや出した後くらいまではわたしはよく海外に出かけていて、外国に滞在する時間がとても心地よかった。
次第に外国へ行かなくなったのは、店を持つと店を空けられないから。長期に留守なんてできなくてせいぜい1週間程度。そして外国にいる間は売上が立たず、金は使うだけだし、同時にその間の店の維持費は垂れ流しになり、それを思うと心地よく外国で過ごせなくなってしまった。
さらにうちに猫が突然やってきて、猫との生活が始まったらなお一層、外国には行けない。猫のことが気がかりで留守にできないのである。
すると今度は猫だけでなく、愛娘がいる状況になって、東京を離れたというのに、つまり店の負担はなくなったのにやっぱり留守にできない。
とはいえ、昨年からは新型コロナで外国には行けない状況ではあれど、外国に行きたいと気持ちは少し薄れ、日本でいいやと思うようになっている。
昔はとにかく気持ちが外向きで、自分の知らない文化に接したくて、外国によく出かけていた。ところがそれが今はちょっと面倒に感じている。
やはり異国は若くて精神がフレッシュで、脳内が未経験の開拓分野でたくさんだと感動するものであり、経験を積めば積むほど感動はなくなり、冷ややかになる。
また現実が色濃くなってしまい、ただの旅行をしたとして、それはやっぱりただの旅行であり、何かそれによってクリエイティヴであるかといえばないよな、なんて思ってしまう。
外国に行くことで創作が生まれ、さらに金になるのであれば行きたい。でも、休暇を楽しむためには行こうと思わない。
あとは文化交流が面倒になった。
昔は外国のほうへ興味があるから、日本人であることは意識せず、その国の文化のどっぷりと浸ることが楽しかった。でも今は異国に理解を示してあげるのもちょっと煩わしい。
中国に行き始めた頃は中国がとてもおもしろく、それも2000年になったばかりの頃で、あのときの中国は急速に発展する助走にあって、未発達なエネルギーが満ちていておもしろかった。
しかし、今は中国も経済発展し、マナーもよくなったし、要するに普通になってあまり刺激的ではなくなった。
あとは中国人と関わるようになり、初めの頃は中国人の異文化的なメチャクチャさが楽しかったけれど、今はその雑さというか、日本の文化に馴染まない融通のなさが鬱陶しくなった。
中国にいればもちろんそれは気にならない。なぜなら、みんな中国人でみんなが中国式だから。ところが日本で中国式でやられると鬱陶しい。昔はそれが異文化としておもしろくて、わたしも許容していたけど、今は全然おもしろくない。不愉快であったりもする。
でもきっとそれは中国人に対してだけでなく、フランス人であろうとアメリカ人であろうと異文化であればきっと同じで、日本にいれば外国人との付き合いは面倒だと思うだろう。
なぜわたしがそんな保守的になってしまったのか?
それはやっぱり自分が日本にいるからで、日本には日本のやり方があって、日本はグローバルな国ではなく、ドメスティックだからである。
ここがアメリカやEUと異なるところ。
異民族が普通に混ざり合う環境でないから、異文化に対応することがほぼ必要でないから日本人は日本にいることが楽なのである。
そんな日本的なぼんやりした空気の中に外国の異文化にズケズケとやられると疲れてしまう。日本人はどうしても異国に合わせてあげようと思う文化で、一方、相手はまるで合わせる気がない。
そりゃ疲れるよ。
もしわたしに昔のようなフレッシュな好奇心があれば別だけれど、異文化は相容れないという現実が嫌ほどわかった。
東京オリンピックは、
「多様性と調和」
をコンセプトにしていたが、それは嘘っぱちというか、お花畑の理想であり、世界はそんな風には動かない。
そもそも「多様性」とは「状態」であり、「調和」とは「意志」なのであるから、概念が別なのである。
世界は個人で成り立っているから多様性であることは当たり前の「状態」。しかし「調和」はそうしようという「意志」であり、個々がそれぞれの形態を持っているのにそれを統括するような調和なんてできるわけがない。
わたしは異文化が自国の中で調和することは不可能であることがわかった。それがわかると異文化の人間と関わるのがものすごく面倒になった。
通じないものは通じない。
だから、その国の何かしらの文化に猛烈な興味、底知れぬ愛情がないと異文化は面倒なものでしかない。
わたしはパリならいつでも行きたいと思うけれど、それはパリという街に対しては強い思いがあるからで、実際にはパリで生活するなんてそれはそれは面倒で日本に即帰りたいと思うほどのものであるのに、パリならそれでもいいと思うのはそんな面倒を超越した特別な思いがあるから。
それくらいの思いがなければ、異文化の煩わしさは我慢できるものでない。
それでもわたしはコスモポリタンであるから、外国での生活は平気で、なんでも食べるし、すぐ馴染む。しかしそれでもパリ以外なら、日本に帰りたいと思うだろう。
昔は日本に帰りたいなんて思わなかったのになぜ今はそう思うか?
日本という国はいい国だとわかったから。
若いときは反発心と外への好奇心で日本を認める気がなかった。でも、よく知るようになると、病院ひとつとっても日本はすごくいい。
アメリカで病気なんてしたら医療費がとんでもないことはよく知られている。フランスは病院なんてあちらこちらにないし、風邪をひいた程度ですぐに診てもらえやしない。
中国で入院したら看護婦は世話してくれない。患者の家族がやるのが基本で、病院からは最低限の医療以外は放置プレイ。
いや、それは日本の医療が手厚すぎるだけで、日本が特異であるのだけれど、それだけ日本は病院ひとつ考えてもよくできている。
外国に行けば行くほど、日本の心地よさが感じられる。
そして、長らく日本を無視していたせいか、今のわたしはむしろ日本を見るほうが新鮮で、観光資源にしても海外より日本のほうに興味がある。
都会好きなのに栃木にいて文句なく過ごせているのは、自分が栃木のネイティヴでないし、ずっと東京にいたから栃木にいる毎日がちょっと観光気分なのである。
毎週愛娘を連れてクルマで出かけ、那須に行ったり、佐野に行ったり、日光に行ったりすることがすでに観光。
昔はジュネーヴのレマン湖を見て感動したけれど、今は中禅寺湖がいい。
栃木だけでなく、いずれは半年くらいかけて愛車を走らせ、日本中を回ってみたい。
それくらいわたしは日本のことを知らない。東北に行ったことはないし、四国にも行ったことがない。
日本にいるのに日本を理解しようとしない外国人を相手にするより、自分の知らない日本を知りたいと思う。そのほうがクリエイティヴ。生み出される何かがある。
ヨーロッパにも今更興味がない。もう十分と思う。フランスは好きだけれど、興味の対象ではもはやない。中国ももういい。アメリカは最初から興味がない。
日本にいることがいい。行ってみたいところもある。
海外で行きたいところは、楼蘭だけ。日本にいる心地よさを捨ててでも行きたいと思う唯一の場所。