結月でございます。
オリンピックに向けて感染者を増やさない方針としての緊急事態宣言なわけで、とは言いつつ、日本は日本国憲法に非常事態宣言の項目がないので「非常事態」ではなく「緊急事態」。
憲法は国の最高法規であって、そこに非常事態のことが書かれていないのだから日本はロックダウンといった戒厳令的な処置はできない。ここが重要なポイントなんだけど、あまり知られていないようで、平気で「ロックダウンをなぜしないんだ!?」なんて言っちゃってる知識人も結構多い。
大抵の国では「非常事態」の要項が憲法にあって、だから非常時には国民の私権を国家が制限できる。
ところが日本はそれがないから「お願い」とか自粛になるわけで、まあどちらがいいかというとおそらく法的には非常事態の明記があったほうが国家としてはいい。でも、わたしは私権を制限されるのは苦手な猫的性格の人間だから、国家がガッチリと非常事態宣言でコロナ対策するよりも今の日本みたいにゆるゆるな緊急事態宣言のほうが好きって思う。
ともかく、日本政府は日本国憲法にそれがないから曖昧な対策しか取れない事実があるのだけれど、気の毒なことにそこはあまり理解されていなくて、意外にもリベラルと言われる層が政府に対してロックダウンをしろとか、オリンピックを中止しろだとか、私権制限の主張をしている。
本来、リベラル層が日本国憲法を変えないような護憲派で、保守層が改憲派であるのにコロナ禍ではそれが逆転しているところが実におもしろく、自民党のほうがリペラルっぽい政策をしている。
でもこれは昨今の若年層からのイメージ通りで、つまり自民党が改革政党、リベラルが保守政党と若者からは見られている。
若くない人にとってはものすごく違和感があるイメージであるけど、現実的なところは若者の視点の方が正しくて、日本国憲法を何がなんでも絶対に変えない!というリベラルは変化を好まない保守に見えて当然。
というわけで、自民党政府が日本国憲法に書かれていることをちゃんと守ってゆるゆるな緊急事態宣言で国民に「お願い」で済ませているのに、なぜか護憲派のリベラル層が私権を制限してコロナ対策をしろと法律無視な主張をしていたりする。
改憲に反対するのではれば、ゆるゆるな緊急事態宣言を支持すべきであり、ロックダウンなどの措置を求めるのであれば、それは同時に改憲して非常事態宣言の項目を作り、私権制限の権利を国家が持つことを認めなければならない。
とまあ、法律的にはお酒の提供を禁止にすることは日本国憲法的には超法規的な処置となり、ビミョーなところ。
しかし、感染は現在進行形であるから、もちろん憲法改正する時間もないし、まさに今、対策をしなければならないために超法規的なことをやる。
さて、この酒類提供禁止措置に対してもちろん酒を出す飲食店やそこに酒を卸す業者は、
「やってらんねえよ」
というムードに違いない。
ここまで休業が長く続くと、コロナが明けた暁に店を開けようと水道をひねると茶色い水が出てきそうだし、バーテンダーなんかカクテルのレシピを忘れてしまうのではないかと思ったりする。
協力金がもらえるとしてもモチベーションを維持するのは難しく、人間は長く仕事をしないと怠け癖もつくし、そこからハイテンションになって店を開くのはできる人とできない人がいそうな気がする。
と、まあそれはいいとして、酒類提供禁止が言われるとSNSなんかには政府の悪口を言いまくっている人や酒場で感染が広がるエビデンスはない!なんか言っちゃったりする。
ちなみにわたしは「エビデンス」という言葉が嫌いで、もちろん英語の直訳に過ぎないにせよ、人間の行いにはすべてを証明できるエビデンスなどそもそもないのだから、エビデンスを主張するのはヤクザみたいなもので、ちょっと恫喝めいた使い方がなされる。
もちろん、反ワクチンのとんでもな話に対しては、
「そんなエビデンスはないです」
と、医学的、科学的に言うのはいいとしても、エビデンスという言葉があちらこちらで多用されると、エビデンスなんて気にしないで普段は生きている普通の人間にとってはどうも居心地が悪い。
浮気を疑われて、実際にこっそりと女に会っていた亭主に女房が、
「あんた、浮気してるでしょ!」
と、問い詰めるも、亭主は、
「そんなことしてねーよ! 俺が浮気してるっていうエビデンスはあんのかよ?」
なんて言われつとどうも刺々しい。
日本語で、
「浮気してるっていう証拠でもあんのかよ!」
と言われれば、まあ会話はまだ繋がりそうなものも、エビデンスがあるのかとちょっと科学的なニュアンスで言われると黙り込んでしまう。
だから、エビデンスという言葉は科学的ニュアンスがあるぶん、日常で使われるとどうも脅迫っぽく聞こえるもので、こういう言葉を使うような人とは日常ではあまり付き合いたくない。
とまあ、酒場での感染拡大にエビデンスがどうとか言われても、物理的な推測、つまり飛沫が飛びやすいんじゃないかというくらいで、そもそも調査することなんてできやしない。
だからエビデンスに乏しいように思われるけれど、まあ居酒屋なんかでたまに目にする大声で大騒ぎして団体で飲む学生コンパ的な飲み会は感染しそうというのは間違いない。
あとはカウンター席が10未満で、女将が一人で切り盛りして近所の常連のおっさんが飲んで上機嫌になっていたり、1000円でベロベロに酔えるというブルーカラー向けの「せんべろ」なんかも感染リスクは高そう。
要するに客層の問題であって、客層が悪いと飲み方もひどいからお酒は飛沫ブレンドになるわけで、そりゃ、危ないだろってなる。
わたしなんて銀座にいたときはオーセンティックなバーで一人でカクテルを飲むっていう客層のいいドリンカーを自認しているから、まあ感染リスクはほとんどなさそう。
とは言え、今は銀座にいないし、栃木の田舎じゃバーもないし、そもそもお酒ばかり飲んでいた習慣は昨年のお盆あたりから「趣味・病院」の健康志向になって、こんなアタシがお酒をほとんど飲まなくなった。
すると、γGTPの値は「普通の人」になり、最近ではむしろお酒を飲むのが面倒で、体もだるくなるしで、積極的には飲まなくなった。
とは言え、それまでは普通の人の人生の50回分くらいはお酒を飲んでいたから、この年でお酒に関しては達観して、
「もういいや」
という仙人に似た境地になった。
そうは言っても、飲めると言えば当然飲めるから、まあ誘われたら飲みに行ったり、結美堂山ガール部で山登りしたあとはホテルで飲むし、好きな愛人と会えば飲む。ただ、それがたまにしかない出来事であるから結果的にほとんど飲まない。
すると目に見える変化として、昔は手のひらが真っ赤だったのが、それほど赤くなくなった。お酒を飲むと肝臓に負担がかかるので、何かの理由で手のひらは赤くなる。それがすっかりなくなってしまったのである。
と、お酒からは解脱したわたしはまったく飲まないのではなく、必要な時には飲む緩やかさでもって人間関係のテリトリーは狭めていない。
と、かつてはディオニソス認定の酒飲みだったわたしは緊急事態宣言で酒類提供が禁止になったり、酒場が早い時間に閉まってしまっても、な〜んとも思わない。
別になくても困らないものは人間は怒ったりしないもので、つまり酒類提供禁止でSNSで文句垂れたりするのは、
「要するにあんた、酒が好きだからでしょ?」
ということに他ならず、確かに人間は自分が好きなものの供給を止められると腹が立つ。
そうなると、
「酒なんかでコロナに感染するエビデンスはねーだろ!」
みたいなことを言っちゃうわけで、それはすなわちポジショントーク。
人間の主張とはほとんどがポジショントークであり、自分中心に世界を回したいもの。
だから、そのポジションにいないと、
「別にどーでもいいけど、お酒なんて」
となるのであり、わたしは今、そっち側の人間。
昨年あたりに演劇やコンサートが中止になって、演劇やってる人や音楽やってる演奏者が、
「文化は不要不急じゃない!文化は人間にとって絶対に必要なもの!」
みたなことを言っているのをウェブでよく見たけれど、これも酒好きが酒禁止に対して正当性を主張するようなポジショントークと同じで、そこの興味がない人にとっては文化なんかなくても全然困らない。
ちなみにわたしはクラシック音楽を仕事にしているから、今、進めているコンサートだって緊急事態宣言なんかやられたら困るけれど、例えば歌舞伎が中止になってもそもそも歌舞伎は見ないから別に困らない。ロックフェスティバルがなくなっても自分の人生には関係ないし、ジャニーズのライブも関係ない。むしろ自分に関係ないイベントのほうが多い。
ともかく、自分のポジションが侵されると得てして、それが社会に必要だとか正論っぽいことを言ういやらしさが人間にはある。
実はわたしも昔は文化が重要で、文化こそ人間にはないといけないと思っていたが、中国のド田舎で過ごしてみて、文化大革命で徹底的に文化がぶっ壊され、文化が評価もされない歴史があって、さらにそもそも文化がない田舎で過ごす人間の生き方を目の当たりにして、
「文化がない育ちをした人には文化は通じない」
という事実を知った。
そして、文化がない人たちは文化がない生活をしているから、それで困ることはない。すなわち文化が人間には必要であるという主張は暴論とも言える。
とは言え、もちろん文化がある人間のほうがおもしろいと思うし、そこから得られる精神的な豊さはあるのはわかる。
だから、わたしは文化を否定はしない。否定はしないけれど、そもそも文化を求めていない育ちの人に文化を広めようという昔の宣教師みたいなゴリ押しはしない。
わたしだって歌舞伎を好きになれと言われても困る。興味を持てないものには心はときめかないもので、歌舞伎はすごいことは頭では理解できても趣味が合わないとどうしようもない。
とまあ、そんなもので、酒類禁止に怒るのはただ酒が好きだからという理屈。
憲法で定められた人権があって、国家がその私権を制限することは法的にどうなんだ?という怒りで酒類提供禁止に反対意見を言う人は少ない。
好きな酒を禁止されて、好きな酒を商売にしたのにそれを制限されたから怒る。
きっとそういう人たちは、ケーキやお菓子をランチタイムに食べながらおしゃべりしまくる有閑な女たちに対して、もしスイーツが禁止となったとしても怒りはしないだろう。
なぜなら、自分が好きなのは酒なのであるから、スイーツが禁止になっても関係ない。
法律的なところで考えれば酒もケーキも同じで、大事なことは私権制限であると考えるが、世間はそんな小難しいことは考えない。
まあ、わたしのポジショントークをすれば、酒類提供禁止のおかげで感染者が増えず、抑制できたままワクチン接種が進んで11月に行うコンサートで緊急事態宣言なんか出ない状況になってくれれば、それでオッケーと思ってる。
酒類提供禁止が確実にコンサートが開催できることに少しでも貢献しているのであれば、憲法的な私権制限に思うところはあれど、酒類提供禁止には文句は言わない。
人間は自分が何を大事にしているかなのだ。
自分の好き嫌いを正当化する。そういうもの。
ともかく、お酒に執着しなくなってわたしは楽になったよ。肉体的にも精神的にも。
すなわち、執着しないってことが自由の根源。