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非合理的な気持ちがビジネスをおもしろくする。

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結月でございます。

さて、今日のお題は「非合理的な気持ちがビジネスをおもしろくする」っていうことなんだけど、まあビジネスなんてカッコいい言葉を使いつつ、わたしがとりわけビジネスでデカいことをやってるとか、ビジネス的に成功しているとか、要は世間で言うビジネス的な人間じゃないわけだけどね。

なので、ここでもビジネスっていうのは「人間の営み」くらいに考えるといいかな。

思うに今のトレンドは合理的な考えってやつで、筋でちゃんと考えるとか、論理的に整合性があるのを求めてるわけ。なので炎上なんて非合理的なことをやらかしてしまったときに起こったりする。

「そういうの、やる意味ある?」

なんてもはや定式化された言い方なんてさ、それは合理的じゃないよねっていうことだよ。

ところが困ったことに人間というのは非合理的な要素が大きい生き物で、だからこそそれだと間違いを犯すっていうので合理的な考え方を身につけようとしてきた。

例えば、コロナワクチンが危険だとかいうトンデモをマジで信じてしまうタイプって、要するに合理的な勉強をしてこなかった人だと思うのよね。学校である程度数学とか、生物とか、合理的な学問をちゃんと勉強したらmRNAワクチンに危険性がないってことはわかるわけよ。でもそこんところの教養の地盤がないと容易く陰謀論に染まっちゃうわけ。

だから、合理的な考え方って判断を間違いなくするにはとても大事で、だから数学とか勉強したほうがいいのよね。

そう言えば、早稲田の政経だったか、経済やるのに今まで数学が受験科目になくて数学を導入するって話を小耳に挟んだけど、あれって早稲田の政経でよかったけ? うろ覚えで間違ってるかもしれないけど。

でもさ、私立大学の文系ってわたしは一切認めていないのはさ、入試に数学がないせいなんよ。経済やるのに数学を勉強してこなかったとか、どうなん? 法学部だって法律という人間間のやり取りを名文化するのに数学をしてないとか、それで合理的判断を下せるの?って思っちゃう。

とまあ、ともかく合理的な思考っていうのは最低限、教養としてないと金運の数珠をしておけば金持ちになれるとか騙される。

じゃあ、人間はできるだけ合理的に、つまり非合理的なところを軍隊を進軍させるようにぶっ潰していけばいいかというとそうでもない。

まずは合理的だけに生きようとするとどうやらハッピーじゃないみたいなわけよ。

わかりやすい例は金儲け。金をたくさん得ることだけを目的にするって徹底的に合理的になってくる。金のこと以外は排除して行って、お金に関わることだけを推し進める。

確かにそうやったほうが金はたくさん得られる。ところが合理化して自分を金儲け人間にすると非合理な情がなくなってくる。ハッピーってのは情の一種であるから、合理的になるとはすなわち情を排すること。幸せからは遠のいていく。

でも、情に重きを置いてセンチメンタルになると物事がうまくいかない。選挙で左翼政党がいつまでも勝てないのは主張が情に訴えるようなものが多いからで、現実的な合理性がなく実現性が乏しいと思われるから。

そして、情というのは非合理の塊みたいなもので、エネルギーはある。ブチ切れたとか、好きでたまんないとか、そういう非合理な感情にはエナジーがたっぷりなわけ。

だから、非合理ばかりでも駄目だし、合理ばかりでも駄目。おそらくは非合理が3割、合理が7割くらいの割合がいいんじゃないかと思う。

そこで冒頭のビジネスの話。大したビジネスやってないのにビジネスを語ってみる。それはもう一度言うと人間の営みでもあるから。

何かをやりたいっていう気持ち。これはビジネスのコアになるもので、精錬されていない重金属だとか、精製されてない原油だとか、そういったもの。それは非合理なエネルギーであり、そこに合理性はない。やりたいからやりたいのっ!という気持ち。

まずこのエネルギーがないとビジネス(人間の営み)は進まない。

なので、「何をやったらいいかがわかんないんです…」なんていう自分探しの路頭に迷っているタイプはスタートからアウトなんだよね。だってエネルギーのコアがないんだもん。

こういうのはビジネスをやる起業家だけでなく、芸術も同じ。画家なんて描きたくてたまんないエネルギーが自分の胸で爆発しそうだから描くわけで、描きたいものがわかんないという画家はいない。

その欲望みたいなものは非合理がゆえに、ビジネスをおもしろくする。合理性はわかりやすいものだから要領は良くしてくれるけれど、おもしろくはさせてくれない。

ところが非合理な欲望だけだと現実の対処ができない。まるでおもちゃを買ってほしいと泣きわめく子供のよう。

だから、非合理なエネルギーを温存させながら、合理的にその実現に励まなければならない。それゆえに比率は3:7。

自分の欲望を実現させるために合理的なことをやる。

そして、非合理なエナジーが大きければ大きいほどぶっ飛んだことができる可能性が高まる。

それが小さいと実現の可能性自体は高まるかもしれないが、平均的なものしかできない。

また人を惹きつけるのも非合理なものなのよね。陰謀論みたいな合理性のないものがある一定の人気を集めるのもそれは非合理な胡散臭さが魅力に見えるから。

ハリウッド映画なんかでもエイリアンやゾンビに襲われ、絶望的なところに追い込まれたところに主人公が、

「やってみせるさ」

とカッコつけて、ひとり飛び出して機関銃をぶっ放すようなシーンがある。

合理的に見れば敵に殺されることは明白であるのに、何の根拠もない自信でやってみてしまう。非合理なセリフであるけれど、こういうのがあると映画は盛り上がる。

そして映画では実際にどうにかなってしまうのであるが、それは映画の脚本だからで現実には「やってみせるさ」と言ったところでどうにもならない。

そういうのは非合理の代表格、センチメンタリズムであり、実はこれが最も危険でもある。

経営的にヤバいところまできた企業の社長に、

「やってみせるさ」

なんて発言されると困る。ところが半分の社員は付き合ってられないとその会社からは逃げるが、もう半分は社長のセンチメンタリズムに感銘を受けて付き合ってしまうこともある。

とまあ、非合理なものはアホすぎて笑えることもあれど、魅力になる。

ノーベル賞を受賞するような研究はその発端がアホすぎるくらいの仮説だったりするし、自動車の自動運転だって一昔前まではそんなことができるわけがないという非合理な欲望だった。

ところがそんなアホな非合理さを追求すると革命的なことが起こってしまう。

その大半はアホで終わるとはいえ、非合理な欲望が大発明、大革命を生む。

さらに非合理な欲望は否定されても平気な顔をしている。

「そのビジネス、絶対にうまくいかないからやめておけ」

と説得を試みようとしても無駄。なぜなら、その人は成功すると非合理な熱情で思い込んでいるのだから。でも、周囲の意見の通りにならず、本当に成し遂げられることもある。

宝くじで1億円が当たると寒い季節に銀座の売り場に行列に並んでいる人々がいる。これも同じで、非合理な欲望で宝くじをその売り場で買うためには寒さを耐え忍ぶことを実現させてしまう。

宝くじが当たると思い込んでいる人に、当たるわけがないから金がもったいないからやめておけと言ったところで聞く耳を持ちやしない。買わなきゃ当たらない!と確率的にほぼゼロである事実を無視する。そして実際にハズレてしまうわけだが、寒さの中に行列を作る忍耐という実績だけは作る。それも非合理なエネルギーによるものだろう。

合理的な欲望はおもしろいものでないが、非合理な欲望はおもしろいものなのである。

宝くじを買うために並んでいる人たちのことは馬鹿だとわたしは思うけれど、一方で「また来年!」なんてポジティヴに生きている馬鹿さ加減はおもしろいと思う。

つまりコアが非合理であり、プロセスが合理的であるのがいい。

宝くじが愚かなのはコアが非合理な欲望で、そのプロセスが自分の能力や努力が及ばない抽選に委ねているという非合理であるからで、すべてが非合理なものはうまくいかない。

そして、コアが合理的なものでプロセスも合理的に進めようとするものは窮屈なものであまり好かれるものでない。

コンプライアンス云々だとか、SDGsだとか、ああいったものはコアの発想が合理的なもので、どうしても人間の根本にある非合理を抹消しようとするから窮屈になる。

愛すべき非合理。愛される非合理がいい。

愛されない非合理はプライドであったり、面子であったりで、そういった非合理は攻撃的であるから扱いにくい。

しかし、その種の非合理はどんな合理的な説明も説得も受け入れない。

だから非合理なものは愛されるもので、笑えるもので、アホなもので、

「マジっすか!」

と、話題にしたくなるものがいい。

そして、合理的なプロセスでそのアホさを実現させていく。

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