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スマホがなかった時代は?

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結月でございます。

今はスマホがあって、身体の一部となっている。身体の一部どころか、身体の性能を格段にアップさせているツール。

SNSを頻繁にやってTwitterやInstagramから情報発信している人は、スマホによって自分の考えや悪口を不特定多数の人に向けて発信できるのだから、それは身体以上の能力だろう。

とはいえ、スマホが普及し出してまだそれほど経っていない。初代iPhoneが出たのが2007年らしいけれど、その頃はまだガラケーでiモードのほうが進んでいた時代で、まだ普及には至っていない。誰もがスマホというのは本当に最近のことなのである。

スマホを身体の一部にするようになって変わったこと。わたしとしては、

・紙のメモを取らなくなった

・紙の本を買わなくなった

・電話の時間が少なくなった

などであろうか。

昔はちょっとした思いつきなど、急いでメモをしていて、それはマクドナルドの手拭き紙だったりもした。でも今はスマホのメモ帳でフリック入力している。

紙だと机の上が煩雑になって、どれが何かわからなくなったけれど、スマホは整理しやすいし、過去のメモ書きもそのまま残っていてアーカイブ化している。

本はKindleの登場で紙の本はほとんど買わない。紙でしか出版されていないような哲学本は仕方なしに紙で買って読む。

Kindleだと書棚がいらないから部屋が狭くなくなるのがいいし、出かけ先にも思い本をバッグに入れて持ち歩かなくて済むし、暗い部屋でもバックライトで読書灯なしに読むことができる。

電話が少なくなったのはLINEやメッセンジャーですることが多くなったからで、テキストとして残っているから約束事なども後でもちゃんと確認できる。

ともかく便利になったもので、個人的な生活においてスマホによって悪くなったことはあまり思いつかない。

ふと思ったのが、スマホがない時代、さらにはケータイがなかった時代は人とどうやって待ち合わせていたのかなってこと。

思い起こせば、場所を厳密に決めて、ちょっとしつこいくらいに確認してから、

「じゃあ、何日のどこそこでね〜」

と、別れていた。

当然、思いちがいや日にちを忘れていて、すっぽかされたり、すっぽかしたりすることがあった。待ち合わせの精度が著しく低かった。

ケータイが出てから、相手が来ないと、

「何してんねん?」

と、電話できるようになり、自分が遅刻しそうになっていると、

「ごめん、遅れる」

と、伝えられるようになった。

さらにスマホによって地図機能を得て、初めての場所にもそこまで迷うことなくたどり着けるようになった。

大昔、高校生の時、模擬試験をよく受けたわけだが、その試験会場までちゃんとたどり着けていたのが不思議でならない。

電車に乗るにしても今のように路線案内で検索することができず、試験会場の最寄り駅まで電車で何分かかるかは大雑把なもので、

「だいたい1時間くらいかな」

なんて予測で家を出ていた。そして、事前に渡された案内図を見ながら会場まで行っていたものだった。

今は案内図をプリントすることもなく、スマホのGoogleマップで行きますからというのが共通の理解になっている。

思えば、8年くらい前にやったコンサートでも作成したチラシにはホールの地図を載せていた。Googleマップはあったかどうかわからないし、あったとしてもスマホは完全普及していなかったし、お客さんが高齢の方だとスマホは持っておらず、Googleマップも使えないからチラシに地図を載せなければならなかったわけだ。

それどころか銀座の結美堂に初めて来るお客さんもしばしば場所がわからなくて、

「今、和光の前にいるんですけど…」

なんていう電話がかかってきて、そこから電話で案内したものだった。

今はそんなことはない。みんなスマホのGoogleマップやYahoo!マップで検索している。

さらに昔は暇つぶしが大変だった。

スマホがあればネットサーフィンしたり、YouTubeを眺めたり、Netflixで映画を見たり、さらにはTwitterに政府批判を垂れ流したりすることができる。しかし、スマホがない時代はせいぜいテレビを見るとか、本を読むといったくらい。

そういえば、高校生の時、京阪電車と地下鉄御堂筋線で大阪まで通っていたわたしは電車に乗る間の暇つぶしにいつも本を読んでいた。それもハードカバーのニーチェ全集だったり、あるときは聖書だったりして、いつもカバンは重かった。今ならニーチェだってKindleで読める。

しかし、スマホがない時代はテレビの力が強大だった。みんなテレビを見ていたし、だから学校へ行ってもテレビの話題が共通していた。

「きのう、パパはニュースキャスター見た?」

と訊くと、

「こんばんは。鏡竜太郎です」

と、先日亡くなった田村正和のモノマネで応える友達もいた。

多くの人が最大公約数的に同じものを見ていたから、話題が共通し、それは楽しかった。わかりやすいのは巨人戦で、月曜以外はいつも夜は巨人戦が放映されていて、同時にバラエティ番組もおもしろいものが多かったので家庭内でチャンネルの奪い合いが起こったりした。

しかし、スマホの登場で、いやそれ以前にネットの登場で一人一人が端末を持つようになりチャンネル権を奪い合う必要がなくなり、各々が好きなものを見られるようになった。みんなバラバラで、人それぞれ。

おかげで楽になったし、同時に寂しくもなった。

共通の話題が得られにくい。巨人戦だって地上波からなくなって随分になる。共通がないからこそ、SNSが登場し、好きな趣味でオンラインで集まったり、オフ会をやったりするようになった。

思えば、終わりが見てきたコロナ禍は久しぶりの全国民が共通する話題であった。誰しもコロナのことを考えていた。

しかし、どうせ共通するなら楽しいことがいい。

ちょっと前なら野球のワールドベースボールクラシックだったり。

オリンピックは昔は共通する楽しさであったけれど、コロナより前からそういうものでなくなってきた。今はオリンピックで感染が広がるとか、それを過剰に反応する人とそうでもない人に分断されてしまっているくらい。

恐怖というのはその源は憶測による感情だったりするので、不確定なものはあまり煽らないほうがよろしく、それがSNSで下手に拡散すると嫌な社会になるものだ。

そういう意味でコロナにせよ、オリンピックにせよ、恐怖の悲観をSNSで書く人間というのは罪深いし、その罪は己の正義感でなされているものだから改善する余地がなく、どうにもこうにも「いやらしい」としかわたしは感じない。もはや人間性の問題かもしれない。

そのいやらしさはテレビなどマスコミが最たるものだけれど、コロナを終わらせようと奔放している行政や政府、さらには自衛隊、医療従事者がたくさんいるのだから、思いはそこに加担して前向きな情報を出したいものだ。

とまあ、スマホの普及でいつしか世の中が変わったわけだけれど、思いのほか人間そのものは変わっちゃいない。

悪意のあるツイートなどもそれは人間そのものであって、スマホで可視化されただけで人間はもともとそんなもんであるし。

ただスマホの合理的な便利さで人間は昔に比べて利口になったとは思う。情報量が少なかった時代はみんなもっと馬鹿だった。

例えば、1999年に人類が滅亡するというノストラダムスの大予言をマジで信じていた人はたくさんいたし、SNSがなかったから悪質な新興宗教が幅を利かせていて、安直に入信する人も多くいた。

個人的にはスマホがある世の中のほうがいいと思う。

しかし、昨夜のトレンディドラマを話題にしたり、巨人が負けたことにウキウキしながら仕事に行くなんていうことは楽しかった。

生きているリアリティを感じる機会は少なくなったのかもしれない。

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