結月でございます。
ジャン・ボードリヤールの『シミュラークルとシミュレーション』を読んでちょっと絶望してしまい、
「これからどないしたらええんやろ…」
と、途方に暮れながら愛娘を保育園に迎えに行ったり、呆然となりながらも絶望をひた隠しながら愛娘と苺ジャムを作る。
ボードリヤールのシミュラークルの思想は極端に新しいものでもなく、すでに知られたものであるけれど、特にスマホが完全普及し、TwitterなどのSNSが“普通”なものとなったくらいにシミュラークルは爆発的に広がってまさしく今、というのがはっきりと理解した。
わたしなりには今更ながらも哲学的な衝撃があって、逆を言えばようやくここまで来たかという感じ。ちょっと今まで古風なものを好みすぎたせいで自分というものが出遅れていた。
というわけで、哲学的には最新のところまで自分がやってきた感があって、それを知ると今まで仕事にしていたものがほとんど壊滅的であることがわかり、その仕組みもすべて理解し、
「こりゃ、あかんデ」
と、諦めの境地に至る。
それはクラシック音楽や京友禅、さらには文芸などなど、これらは一通り壊滅のレールにあって、今まで薄々と感じていたものがフィーリングという曖昧さを超えてボードリヤールを読んで明確に説明できるほど理解したのである。
とまあ、自分なりには大きな哲学的発見をしてしまい、絶望しながらもその発見には些か感動しているというのだけれど、思わせぶりもいけないので自分なりにその発見を一言で書くと、
「我が消滅して構成が存在になる」
となる。
自分なりの発見で、それを理解したというだけで、このことは思えばすでに発見されていたことでもある。
ただ、それを知っている、それを理解しているかとなるとものすごく少数になるのではないか。
クラシック音楽も著しくシミュラークル化が進んでいて、コロナのせいで動画配信もたくさんなされるようになり、これは絶望的なシミュラークル化の推進なのである。
とは言え、動画配信はやるべきではないと言ったところで、そのヤバさ、クラシック音楽自らが自滅するようなそんな行いだと理解する人はほとんどいなくて、収益につながらないにもかかわらず、動画配信で「聴いてもらった気」になっている。
それだけでなく、演奏者もシミュラークル化が深刻で、これからは名演奏と言われるものはほとんどなくなるのではないか。
いやいや、とにかくほとんどのジャンルでシミュラークル化していて、ほぼ社会全体が、世界全体がそうなっているのだから逆らいようがない。
さて、じゃあ、どうすればいいのだろう?
というのが今日のわたしで、絶望したっていいことがない処世術は身につけているので、ちょっと絶望気分になりつつも、すべてを諦めた絶望はしていない。
ただなにぶん、今日の今日だからこれからどうすればいいのか、それに対しての答えは出るわけもない。
批判するしかないのか、しかしその流れを受け入れてしまえばむしろそのほうが楽しいということもある。
とは言え、シミュラークルな時代がますます加速する中で人間はどのように生きればいいのだろう?
おそらくは「利便的快楽と規律の衝突」になるのではないか、と予測する。
シミュラークルを食い止めるだけの規律。そこへの価値転換。それができないとますます世界はシミュラークル化して希薄になる。
規律に価値を重くおくようにするには、そこに経済的利益がなければうまくいかない。理念だけでは駄目で、そうしたほうが儲かる説得力が価値にならないとシミュラークル的経済だけになって、言ってみれば芸術が滅びる。
とまあ、今日一日はそんなことをずっと考えていた。
シミュラークル化によって侵食されるジャンルの業種はきっとそれに抵抗を続けるだろうが、それはもう今からスマホをやめて黒電話にしようと主張することに近い。
要は勝ち目がないわけで、じゃあ、どうすればいいか?
過去の引き継ぎでは駄目なことだけははっきりしている。
まだわからない。一日じゃわからない。でも発見し、理解したのはよかった。
とにかくこれから考える。