結月でございます。
今日は宇都宮。いつもの二荒山神社へお参り。もちろん、ジェネオケ公演の祈願。
祈願して神様になんとかしてもらおうなんて考えちゃいない。神様がなんとかしてくれるわけがない。ただ、気持ちを整えるため。何事も自分で考えて、自分で行動していかないと前には進まないから。
と、賽銭箱へ並ぶと前の女が妙に長い。
「はよせんかい。何、拝んどんねん。どうせ無理難題な要求をしとるんやろ」
と、わたしはその背後でイラチなモード。
神社というのはサラっと自分の責任で行う行動に対して見守っておいてくださいと念じる程度でよろしい。神社は願いを叶えてくれる場所でないから。願いを叶えるのは自分自身よ。その上で神社にサラッと自分の頑張りを報告するわけ。そしたらちょっとだけ助けてくれるかもね。よう頑張っとるなって。
そもそも頑張ってない奴って応援しようがない。自分で困難に立ち向かおうとしないと助けるポイントがない。
だから、応援してもらえる人、助けてもらえる人って頑張ってる人なんだと思う。
さて、徳島の阿波踊りでメガクラスターが起きてしまったらしい。でも、わたし、これは仕方がないというか、祭りのエネルギーって理性で抑えられるものでないからしょーがない、と思う。
感染症の医者はもっと感染対策をしておけばなんて言う。確かにその通り。その通りでございます。患者が増えると病院も大変で命に関わるから。でも、それは医者だから医者としての考えでしかないわけで、阿波踊りを踊りたくて我慢できないという魂の欲望には通じない。だから医者の言葉は阿波踊りとはすれ違うわけで、
「踊る阿呆に、見る阿呆!」
というわけで、阿呆になっちゃうんだから感染対策がどうとか言ったって無理。
「同じ阿呆なら、踊らにゃ損損!」
どうせ阿呆なんだから踊っちまおう。
理性は阿呆には敵わないのである。特に祭りが理性的だとおもしろくないし、祭りにならん。
それに去年まで開催できなかったとなると、祭りへの本能的な欲望はメガトン級。
とまあ、クラスターが出てしまったことに理解を示すというか、
「しょーがないよ、それは」
という人間的、あまりに人間的なことを理解している。
とはいえ、実はわたしは本物は見たことないが、阿波踊りが大っ嫌いで、ああいう大勢が同じことをして、さらに特訓を積み重ねてまでして単調なものを極めようとするマスゲームっぽいものが苦手である。
そして、なんと言っても男のほっかむりが勘弁ならない。わたしは阿波踊りに限らず、ほっかむりが生理的に受け付けない。
女の方はまだマシだけれど、あの笠も苦手。だって、
「ダサくね?」
と、わたしは日本の昔からの庶民的なものがどうも受け付けなくて、フォーマルでリッチなテイストが好き。
と言いながら、自分がいつもだらしないのであって説得力がない。
さて、そもそも祭りというのは、日常の疲れやつまらなさをぶっ飛ばすために自然発生的に生まれたもので、それはどこの国も同じ。いわば、ハメを外すことを許される非日常を楽しむ。
さらにそこに神事が加わったりしてくるわけであるが、確かに祭りがあるとそこに向かうためにウキウキな気持ちでつまらない日常を過ごせる。そんな祭りがないとメリハリもなく人間は荒んでくる。祭りがあるからリセットしながら人間は生きていける。
祭りに限らず、イベントはそういうものでわたしが行っているクラシックコンサートもそんな側面がある。
もっと日常で言えば、週末のバーベキューを楽しみに平日の仕事を我慢している人だって多い。
それをコロナだからと社会的空気でできない雰囲気が続いていたから、
「同じ阿呆なら、踊らにゃ損損!」
そんなヤケクソはわたしは嫌いじゃない。医学的な意味から感染対策を唱えることも大変よく理解できるが、それ以上に理性を凌駕する本能的な欲求を抑えられない人間臭さをそれ以上に理解しているから。
たとえそれでコロナに感染して、最悪そこから基礎疾患がある人や高齢者が死んでしまったとしても祭りだと仕方がない。抑制できないものなのだからその不条理は受け入れなければならない。
と、阿波踊りはダサくて嫌いだけど、阿波踊りを踊りたくて仕方がない人たちの気持ちはわかる。
医者は医者でどうしてわかってくれないんだ…と呆れるを通り越して絶望するだろうが、理性というものはそれを受容できる相手にしか通じないのである。
そして、楽しくて楽しくてたまんない!という種のものは得てして非理性的なものであって、実はどんな人間だって非理性的な楽しみを求めているところがある。
素っ裸の上にコートだけ羽織って通りがかりの女にいきなり露出する趣味など非理性的な快感の典型で、アングラなサービスをやっている怪しいところも然り。
参議院議員のガーシー砲が狙うターゲットはまさしくそこであり、世間的にはカッコよく見える俳優や清楚なイメージの女優が、さらに選挙では国民の皆様のために頑張ると絶叫していた政治家が裏ではハレンチ全開である事実、非理性的な楽しさをエンジョイしまくっているリアルな姿の暴露である。
では理性的であることがいいことか?と問いかけると、これまたちょっとわからなくなる。
感染症の医者の言う通りにしたら確かに感染者数は抑えられたかもしれないが、要するにそんな生活をしてもおもしろくない。感染しないのはいいが、失うものが大きい。そんなの、生きててつまんない!というわけである。
わたしのように元来の引きこもり的性格であれば、コロナがあろうがなかろうが、そもそも人に会わないからそれほど変わらない。
ところが人と遊んで楽しみを感じる社交的、寂しがり屋なタイプはコロナで人に会うなとなるとメンタルがおかしくなる。酒好きの酒を取り上げられるようなものである。
そこに医者の感染症対策は理性的で正しいとしても非理性的なメンタルは受け付けられない。
結局のところコロナの約3年の葛藤、様々な論議の結論のなさの原因はここにある。
統轄できないのである、人間は。
だからこそ、よその国では法律で強制的にやるのが主流であって、それは千差万別の人間たちを統治することの困難さを知っているがためで、その究極は中国の姿である。
国民性が一人一人がかなり身勝手という中で、しかもしれが14億人もいる。となると、強権的な政府でないと社会は保たれない。だからこそ、大胆な処置が取られるわけで、その根本を知っていないからこそ、日本の中国への言論は的外れになる。
ところが日本は中国ほどでないにせよ、やはり人はバラバラであって、すべての人が共通の理解を得ることはできやしない。それなのにそれを強制する法律もなく、だから「お願い」だけでやってきた。決断するはずの政府も決断しないで放置である。
理性というやつはかなり高度なコミュニケーションツールであって、それを持った同士だと意外と簡単に理解し合えるが、それがない人が多いのも事実で、そもそも会話が成り立たないことはたくさんある。
いくら啓蒙しようが、理解する理性がそこになければ通じない。頑張って医者が説明したって、
「踊る阿呆に、見る阿呆!」
と、一蹴される。
まあ、それでいいんじゃないか。しょーがないじゃないか。
理性は大事だが、人間は非理性的でもある生き物なのである。
なるようにしかならない。
祭りだからいいんじゃないか。祭りとはそんな大騒ぎなのだ。コロナを抑えて祭りを抑制しても、そこの鬱憤の爆発も恐ろしいものなのである。
コロナは出なくとも、他のトラブル発生。
でも阿波踊りを踊っている人たちを映像で見ると、必死である。真剣である。
よっぽど好きなんだな。
阿波踊りを抑え込むことはコロナを抑え込むより難しい。きっと。