結月でございます。
夕方5時を過ぎると、すっかり暗くなる。そんな中、3歳の愛娘を迎えに保育園へ行く。
保育園に預けていると言っても、保育園に送る時間、保育園に迎えに行く時間が一日の軸になっていて、その前後、つまり朝の身支度や朝ごはん、夕方の晩ご飯、それから遊びや勉強を3歳児に提供しなければならないわけで、育児的時間という大きな世界の中に自分の時間がその隙間にあるといった感じ。
今日迎えにいって、駐車場に向かっていると、ヒステリックなひどい声が聞こえた。
「ママは仕事で忙しんだから!」
みたいな内容で、茶髪でロングヘアだけど手入れされてないまま伸ばされた痩せ形のママの後を小学生の姉と保育園児の小さな子が渋々歩いている。
人相や様相、それから髪というのは、人を大まかに見極めることができるもので、痩せ形はやはり神経質が多いし、バサついた髪は所得が想像できるし、身なりで生い立ちがわかる。
仕事の内容は知らないけれど、それほどいい仕事はしていないと一目でわかる。そうなるとつまらないストレスが多くなる。
そんな仕事を終え、子供を二人も迎えに行くのは気の毒とは思いつつ、それよりも子供が気の毒だと思う。
あんなヒステリックな親と毎日一緒なら、のびのびとは育たないだろうし、おそらく教育水準も低く、文化的な供給もないだろうから将来の子供のチャンスまでなくなってしまう。
御里が知れる、とはすなわち親の水準なのだろう。
と言いつつ、かく言うわたしも親の水準は低い。
さて、保育園に行くといろんなママさん、時々パパさんを見るのだけれど、育児とは向き不向きだとつくづく思う。
子供を育てることが性格的に向いていない人はやっぱり向いてないとしか言いようがなく、それなのに親だから育児をしなければならないのは本人にとっても苦痛だし、子供にとっても苦痛だろう。
向いていない人はどうすればいいかと考えてみると、それは正しい育児知識、つまり子供はそんなもので、そんなときはこうすればいいということを知識として「理解」しておくといい。
そうすれば子供のわがままにも冷静に対処できる。
しかし、これも理想の話で、なぜならコロナを見てもわかるように、正しい知識はちゃんと公開されていて、それは厚生労働省のサイトでもいいのだけれど、そういうところを見ないでワイドショーの情報を鵜呑みにしたり、知識で理解しないで気分で行動したりする人が大変多くて、その結果、社会には正しい知識は広まらない。
なので育児の知識も根本的にそれを「理解」できるだけの能力がないと正しい情報は届かない。
さらにネットでは怪しい情報がたくさんあって、その分別ができるかは知的レベルがある程度求められるから、やっぱり正しい情報は広まらず、トイレットペーパーがなくなるというような情報を信じ込む。
なので、子供相手にヒステリーになるママさんには多分、まともなことを説いたところで無駄だろう。
また、ヒステリーになるのは自分の生活にゆとりがないからに他ならない。
金銭的にも時間的にもゆとりがあれば子供のわがままに付き合える余裕がある。ところがその余裕がないとすでに自分がいっぱいいっぱいだから、子供のわがままを受け入れる余分がない。
教育格差はここが原因にもなっていて、親の所得が高いほど子供の学歴が高いのは、親にゆとりがあって、いい環境で子供を育て、教育できているからに他ならない。
親に余裕がなくて、親がいつもピリピリしていると、落ち着いて勉強もできやしない。
あとは親が低所得だと統計的にも親の学歴が低いため、親が子供に勉強を教える力がないし、そもそも親が勉強をどうすればいいかを理解していない。
とまあ、社会学的なことを言ってみたけれど、こういう事実はデータとしてはっきり出ていることで、わたしの思い込みで話していることではない。
さて、育児の向き不向きとなると、親の学歴などとは違った話になってくる。なぜなら、それは性格の問題だから。
やはり明るい性格であることが大事で、暗くて、ネガティヴな性格の人は育児には向かない。
育児とは「育てる」であるから、育まなければならない。ところが性格がネガティヴだと、子供を攻撃してしまって育まれない。なぜなら、子供の成長を押さえつけてしまうからで、親の性格が暗いと伸ばすことができない。
陳腐な例えをすると、育児とは太陽であったほうがよく、親が太陽のように光を与えれば子供は伸びる。しかし、それだけでなく、肥やしをやらなければならない。
いくら親が明るくても、子供にスマホで動画を見せっぱなしというのでは肥やしを与えられていない。
すなわち、肥やしとは「教育」なのである。
需要な認識が必要で、それは「育児」と「教育」はと全く別のものであること。
この世に頑張って子供を育てている親はたくさんいる。しかし、子供に教育を与えられている親となると少ない。
育児は頑張ればできても、教育とは親に素養がなければならないから、それがないと教育はできない。だからこそ、学校は必要になってくるのだけれど、親に金はあっても、素養がなければ金で学校に通わせても子供はいいようにはならない。
その証拠に日本には学費だけ高くて、内容はかなり馬鹿というFラン大学が数多くある。
つまり、育児には向き不向きがあり、教育には能力の有無がある。
ところで日本では育児は女がやることが主流となっている。しかし、女だからって育児に向いているとは限らない。
むしろ、向いていないほうが多い気もしなくはない。
キャリアウーマンなど仕事をやせれば能力値が高い女性が自分が産んだ子供の育児に疲弊し、社会復帰を望むケースもある。
育児とは我が子との対面で、それはあまり社会性のないものだから、社会の中でバリバリやりたいタイプは育児には耐性がないように思う。
言ってみれば、自分のことをひとまず置いておこうと思える人でないと育児はきつい。
おそらく、昔の日本は女性が主体的に生きるという哲学がなく、それゆえに育児ができた。しかし、今は自己啓発もいくらでもあり、自分がどう生きるかを普通に考えるようになった。そうなると、育児という自分時間放棄は厳しい。
さらに日本の経済状況もずっと悪いままなので、夫婦共働きが普通。ママが保育園に連れて行き、そこからパートに出かけ、そしてそれが終われば保育園に迎えに行くとなると、子供のわがままにブチ切れるのは当たり前。
そうなると、所得が高いほうがシッターも雇えて、育児環境、家庭環境も穏やかという結果になってくる。
あとは「楽しめる」ことでないだろうか?
育児を楽しむ。
ここからはわたしの話になるけれど、わたしは3歳の女の子と毎日一緒にいて楽しい。もちろん、休日など終日一緒となるとかなり過酷で、去年の2歳のときのGWなど地獄だったとはいえ、それでも楽しい。
面倒臭さを楽しみに変換しているところもある。
まず、人間観察として、3歳児は大変おもしろい。わたしは大学でエリクソンの心理社会的発達理論を専門に勉強していて、それをリアルに体感できるのがおもしろい。
そして、一緒にクラシック音楽を聴いたりしながら、フォルテッシモになると、
「おっきい〜!」
などと騒ぐのも楽しい。
さらに週末はクルマで必ずどこかに出かけ、今日はどこに行く?と二人で話し合うのも楽しい。
ちなみに今日は七五三のために京都で染め上げた着物を来週の本番に備えて、試しに着せてみた。自分がコーディネートした着物、それも本物の京友禅で、ずっと自分が仕事にしてきたプライドがあるもの。それを着せることができて喜ばしい。もしこれがレンタルのコスプレ安物着物だと、この感激はない。
毎晩、ひらがなやカタカナ、そしてアルファベットなどの練習帳に書く練習をすることも楽しみのひとつ。人間というのはこうして文字を覚えていくのだと、その成長を感じている。
つまり、これは人間に興味があるから育児を楽しめるのである。そして、人間に興味があるとは、すなわち文化に繋がる。
文化がなくて、金にしか興味がない人間には小さな子供の成長を楽しめないだろう。
なぜなら、文化がなくては、子供に教えるものがないから。
それと同時に、小さな子供といることで、わたし自身、新たな発見に日々、遭遇している。「なるほど」と思う連続。これが楽しくないわけがない。
確かに育児はきつい。子供は無理難題を押し付けてくる。不可能なことを要求し、それは無理と答えると泣きじゃくる。理屈で説明したって通じやしない。相手が子供だとわかりつつも、かなり腹が立つことはある。
しかし、それもエリクソンの発達理論で納得できる。モンスターになった子供は扱いが大変だけれど、発達理論で理解すればモンスターでないことがわかる。知識で頭を冷却する。
だから、正しい知識は必要なんだ。
それでも育児はきつい。そこはゆとりが必要になってくる。いくら正しい知識があっても、どうしようもない要求を子供にされて大泣きされると、さすがに精神は疲弊する。その対処に愛情電池の大半を使わなければならない。これがなくなると危ない。
わたしは保育園を軸に一日が決まる生活を始めて、極力、育児に必要な精神の余裕を持つように心がけている。だから、派手な仕事はできない。そこでストレスを作り、エネルギーを消耗すると、子供のわがままを受け入れられないし、勉強だって教える余力もなくなる。
それは大きな損失で、子供が大きくなったときに後悔する。
だから、今は自分の精神が乱れないような生活を心がけ、3歳児に主軸を置くようにしている。そうしないと、今日目撃したママさんみたいに子供相手にヒステリ〜を起こし、さらには「お前がいるから何もできない!」という最低な思いを持ってしまう。
それは子供に悪影響しかない。
だから、今は悠々と育児。金はあとでいくらでも稼げる。どうにでもなる。
しかし、子供にとっての今の時間は貴重で、今しかない。今、親が最悪な精神であってはいけない。
とはいえ、悠々とするおかげで、東京ではできなかった取り組みをじっくりとすることができている。いい仕込みになっている。
それがうまくいくと、きっと子供が大きくなるにつれ育児が軽減し、仕込んだものを躍進させることができる。
このようにやりようによってはいくらでも育児をポジティヴにすることができる。
それに今は3歳だから良くても、大きくなって親がアホだと思われたくない。
油断してると、年の差のアドバンテージなんてすぐになくなってしまう。今はひらがなを書くことに威張っていられても、そのうちわたしができないようなことをやりこなしてしまう。
それはそれで嬉しいことであれど、アホだと思われないように自分自身の向上心だけは持っておかねばならない。
そんな意地を張るのも、育児におけるひとつの楽しみだと思っている。