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音楽は不要不急であるけど、あったほうがいい理由

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結月でございます。

日曜日は東京でレッスン。やっぱり東京にいると心地いいし、レッスンしてると楽しい。

と、東京にいる頃はそれが日常だったのに、今はそれが非日常になっていて、日曜日が貴重なものになっている。

そして、東京から戻ると3歳の愛娘が待っていて、もちろん猫も待っている。

月曜からは保育園が始まり、日常が始まる。

思えば、毎日着物着て、それは訪問着など晴れ着ばかりだったから、普通の人にとっては非日常なものがずっと日常だったわけで、しかもわたしの日常の場所は普通なら非日常な場の銀座だった。

なので、今は一般的な日常で過ごしているのかもしれない。

でも、自分としてはそれは「らしく」ない非日常のようにも思えるけれど…

さて、そんな日常。晩ご飯を食べてから、3歳児は、

「おんがく、きく〜」

と、勝手にCDを選び、オーディオにセット。

どれがどの曲かわかっていないがらも、なんか適当に選んでいる。

今日のチョイスは、チャイコフスキーの交響曲第5番だった。

「いいんじゃない?」

と、わたし。

チャイコフスキーは交響曲を6つ書いているけれど、わたしは5番が一番好き。

純粋にいい曲だなって思えるのは3番。

まあ、それはいいとして、3歳でチャイコフスキーを聴いてくれるのは嬉しいなって思う。

やっぱり感受性は小さな頃から身につけておかないと、大人になって心の襞がない人間になっても困る。

そんなチャイコフスキー、今日はたまたまリンクで五嶋みどりが協奏曲を演奏するのをYouTubeで見た。N響。

チャイコのコンチェルトなんて今更って思ったのに、演奏が始まったら停止ボタンを押せなくなってしまい、ずっと聴き入ってしまった。

聴き飽きた曲なのに全部聴いてしまうほどの演奏。

五嶋みどりっていうのは、もう人間界から上に行っている。きっと本人はバイオリンを弾いている意識っていうものはないと思う。想念界の中で弾いてる。

これは練習をたくさんしたっていうレベルでなくて、いやいや、もうそんな話じゃない。

うちの愛娘もバイオリンを習っているけれど、今の段階からすでにそんなレベルにはいかないとわかる。五嶋みどりになるには、うちの子はあまりにも幸福すぎる。

ともかく、たまたま五嶋みどりのチャイコフスキーのコンチェルトを聴いて、その夜、またチャイコフスキーの交響曲。

ところで、あるサイトでコロナ下において「演劇は不要不急か?」というテーマで演出家のインタビューを見た。

その話では、結局演劇をやっている人にとっては絶対に演劇は必要なもので、それがないと生活ができないという話になっていて、社会においてそれが不要不急でないと説得力ある話は全くなかった。

これは音楽も同じで、似たようなインタビューを読んでも、自分たちにとって必要だという意味より外には向いていない話ばかりだった。

それはそうで、演劇も音楽も不要不急なのだから、その事実はどんなに誤魔化しても誤魔化しきれない。

だから、「音楽は人を救う!」みたいな暴論になってしまうのだけれど、音楽は公益なものでなく、それが好きな人のためにしか存在できない。それを全部の人間にとって必要だとか、人を救うというのは論理も何もなくて、雑な押しつけでしかない。

それは日本人なら着物を着ろ!というくらい雑。

なので、わたしは音楽が人間にとって必要とまでは思っていない。なぜなら、大半の人が音楽には接することなく、育ち、生活し、生きているから。

では、どうしてわたしが3歳の愛娘と音楽を聴いているのか?

それは単にわたしが音楽が好きだから。

必要だと思って聴かせているわけじゃない。好きだから一緒に聴いている。

だから、やっぱり音楽は不要不急。

じゃあ、音楽はなくてもいいか?

うん。なくてもいい。

でも、あってもいい。

趣味が違えば、同じことを歌舞伎で言ったり、バレエで言ったり、タンゴで言ったり、社交ダンスで言ったりするだろう。

ひとつ言えるのは、不要不急でない、明らかに必要であろうというものだけだと、人間は窮屈さを感じて、思いのほか、生きるのが大変だということ。

それは毎日が受験勉強の日々みたいな感じ。

明らかに必要なものに時間をかけるのは大事だけれど、不要不急なものがないと息苦しい。

そんな息苦しさをなくしてくれるものが、他ならぬ「文化」なのである。

そして、文化がある人間のほうが人間に理解がある。

文化を抹殺した試み、それは中国の文化大革命で、それによって人間がどのようになったかは文革を見ればよくわかる。

だから、コロナの緊急事態宣言中はわたしは文化大革命の空気を感じた。人によっては戦時中の日本だと言う声もあった。

不要不急の文化を禁止すると、そうなってしまう。だから文化は不要不急であっても社会にあったほうがいい。そう逆説的に言える。

そして、不要不急の文化がたくさんあるほうが経済も良くなる。文化大革命中の中国はド貧乏だったし、戦時中の日本だって食べるものがなかった。

文化を殺す試みをすると経済も殺されてしまう。そこは連動している。

テレビのCMだって、BGMは不要不急の音楽を使っているし、その商品だってデザインや色彩など不要不急の絵画的要素を使っている。

人は知らずのうちに文化に金を払い、文化を得て、経済を回し、そして心地いい生活を送っている。

それ単独では確かに不要不急でも、あったほうがいいことは確かなわけで。

しかしながら、音楽をやる人も演劇をやる人も自分にとって必要だからそれらが不要不急じゃないとしか言えていない気がする。

それでは世間は納得しない。好きなことをやってるだけだろ?と言われて当然。

さて、音楽に限らず、何かしらの文化がない家庭というのは、家庭内文化大革命なのかもしれない。

そういう家庭はかなりの数になるのではないか。

しかし、小さな頃に感受性が培われていないと、大人になってからそれは習得できない。感受性のないまま大人になった人にいくらいい音楽を聞かせても本当に無駄。何も感じないのだから。

そういう人間は自分が幸せだと感じられないらしく、悶々とした性格になる。

そりゃそうだ。感受性がないから、美しいものを感じられず、つまり幸福を感じられない。

幸せとは「感じる」ものなのだから、感受性がないと目の前にある幸せすら感じることができない。

だから、小さい頃からいい音楽は聴かせておいたほうがいい。

しかし。

感受性が強くなりすぎて、誤作動を起こすようになると途端に人間は破滅的になる。

だから感受性はなくてはならないけれど、極端でありすぎるのもよろしくない。

そうなると困るから、音楽は不要不急という程度でちょうどいいとも言える。

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