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身体性を持ったものしか要らなくなる。

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結月でございます。

わたしは物欲があまりなく、だからこれと言って欲しいものはない。多分、モノに欲望を持つより、非物質的な達成といったものの方に価値を置いているからだと思う。

でも、物欲にまみれた人が幸せそうに見えるかというとそうでもなく、むしろいつもガツガツして、モノを買うための金に生きていて余裕がないように見えたりする。

人間は実のところ、生きていくのにそれほどモノは要らない。それは人類的な進化でもあって、車は買わずにカーシェアでという流れも進化の一つ。

「いつかはきっとクラウン」

というのは、昭和の物欲時代、それもモノに不足していた時代ゆえの夢であって、モノに溢れて、いつでも通販で手に入る裕福な時代では、モノがないミニマリスト的なほうがリッチなテイストになってくる。

そうは言っても、ないと困るモノがある。

例えば、スマホ。今はこれがないと何もできない。

とまあ、モノがまったく要らないかというわけでもないけれど、これから身体性を帯びた商品しか売れなくなる、と思う。

わたしにとって身体性のあるモノは、まずiPhoneで、これは身体の一部として可動し、常に情報を取り入れ、遠くにいる人にも瞬時にメッセージが送れ、自分の身体を飛躍的に高性能にしている。

そして同時にMacBook ProとMacBook Air。この二つはiPhoneではできないことをしてくれる。

MacBook Proがあれば動画も自在に配信でき、その動画は自分が伝えたい情報なわけでそれを発信するという身体性となっている。

最近買ったものとして、ダイソンの掃除機。

これはコードレスでコードの長さを気にすることなく自由に動ける。ダイソンを持った自分の体は掃除機内臓の身体でもあり、その使いやすさが身体性となって「掃除」という能力を躍進させている。

オンキヨーのステレオも身体性がある。リモコンボタンの反応のよさは心地よく、聴きたいときにスッと音楽を流すことができる。

あとはクルマ。愛車のメルセデスは滑らかに加速し、滑らかに止まる。体の一部となって違和感なくどこにでも行ける。しかし、レンタカーで借りた国産車などは、自分と分離した車というものを操作している感じがあって、まるで一体感がない。

とまあ、このようにこれからのモノ作りは、身体との一体感、その身体性がポイントになってきて、それがないモノは売れないんじゃないか、と思う。

やはりモノという工業製品が身体性を持つ先駆的な役割をしたのは、iPhoneに他ならない。

この感覚が人間にとって普通になればなるほど、身体に馴染むことが求められる。

それらの特徴はグローバルであるという点。

どこの国の人でも、どんな文化圏の人でも、誰にでも使えるモノ。使いやすいモノ。

取説がないiPhone。

そして取説があっても文字がなく、イラストだけで使い方がわかるダイソン。

グローバル的なヒットの要因はそこにある。

そんな身体と一体になってくれるモノがあると、自分という人間のスペックが上がるわけで、それだけ揃えばかなり楽しむことができる。

となると、ミニマリスト化は必然であり、大きな家も意味がなくなってくる。

なぜなら、いくら大きな家を持っていても、やることはスマホでNetflixを見たり、電子書籍を読んだりであり、大きなスペースは使う当てがないから。

そして、楽しむのに金がかからなくなった。

一昔前なら、好きな映画を観るには一枚数千円のDVDを買ったり、もしくはレンタルビデオでわざわざ借りたりした。

ところが今は月額1000円未満のサブスクで映画が見放題だったりする。

それどころか、YouTubeでは無料でいくらでも動画が楽しめる。

だから、自分の身体性にフィットするものさえ揃えておけば、モノはそれほど要らないのである。

ミニマリストのほうがリッチなテイストという時代。

無駄で、余計なモノが溢れた家に住んでいると、汚らしく、どこか貧乏臭く見えてしまう。

それは食べなくていいものまで食べて、ブクブクと太った肥満を見るところに似ている。

モノがあればあるほど貧乏に見えるのは、身体性のあるモノがあれば事足りるというシンプルなカルチャーがないために、ガツガツとした貪欲さが感じられるからで、金をたくさん持っているかどうかという問題ではない。

今は物質的に恵まれた時代であるから、ガツガツすることが貧乏臭く感じられる。

何が必要で、何が必要でないかという見極め。これがあるかどうかがモノに溢れた時代の礼節なのかもしれない。

その見極めをジャッジするにいいのは、食器棚を見てみること。そしてクローゼットを見てみること。

使いもしない食器がたくさんあり、出番のない皿や茶碗がぎっしりとしていないか?

同じく、着ない服にクローゼットがまみれ、流行遅れどころか、太ってサイズが合わずにそもそも着ることができない服でそこが埋まっていないか?

実際に使う食器を数えてみよう。

実際に着る服を出してみよう。

日常生活にはたったそれだけでいいという現実が一目でわかる。

そこにほんの少しだけ、よそ向きの上質なモノがあればよろしい。

自分の身体から遠く離れたモノはもう要らないという時代。

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