結月です。
昨日、ある国内作家の短編小説、それは純文学だけれど、「あんまりおもしろくはないな」なんて思いながら全部読んだ。
思うに小説、特に純文学というのはストーリーがどんなものだったかという記憶が残らない。そういうものなんだなと思う。
なので、すごい作品とは、どこかのフレーズがグサッと突き刺さるように覚えているとか、あるシーンが忘れられないとか、まあそんなところで、これが開高健が言う「一言半句」というものだろう。
その一つを生み出せるかが難しくて、表現は豊かでもダラダラと長いだけとか、記憶に残らないとかそうなるのが普通。
わかりやすいのは川端康成の『雪国』で、
「国境の長いトンネルと抜けると雪国であった」
という冒頭で強烈なインパクトを与えていて、後のストーリーはどうでもいい。というか、憶えちゃいない。
この冒頭ダッシュは音楽で言えば、メンデルスゾーンのバイオリン協奏曲で、いきなりあのメロディでキメちゃって、あれだけが記憶に残るものになった。
ロベルト・ボラーニョの『2666』は日本語訳で上下段900ページほどある大作だけど、ストーリーははっきりせず、ただ「ド級にすげえ!」という迫力だけが残っている。
ストーリーの展開でおもしろさが強調されるのはどちらかというと直木賞系であって、純文学よりそちらのほうが売れ行きがいいのは理解できる。
売れ行きで言えば、ビジネス本や自己啓発本はもっと売れていて、というか売れている書籍はそのジャンルしかない。
なので、書店ではそのジャンルに多くの売り場面積を使う。
「本は読んだ方がいい」と昔から言われるけれど、それは得てして純文学作品を読むほうがいいという意味で、学校の読書感想文の対象は純文学だったりする。
もし読書感想文でホリエモンの本を読まれて、夏休み明けに中学生が、
「俺、もう学校辞めて、スマホで勉強するッス」
なんて言われても学校としては困る。
というわけで、本を読むほうがいいというのは答えが記されていない曖昧な純文学であると考えていい。
そうしたものとビジネス&自己啓発本が違う点は、答えが書かれているかどうか。
ビジネス本にはこうしたら業績を上げられるとか、自己啓発本にはこうしたらハッピーになれるとか、真偽はともかく答えらしいものが書かれている。
あとは本を作るプロセスが異なっていて、純文学系は作者が書きたいものを書いていて、ビジネス本などは読者が読みたいものが書かれている。
しかし、読者が何を読みたいか?という答えはすぐにわかるものではなく、だからビジネス本系編集者は「この人は!」と思った人に依頼するわけで、それはその人の言っていることはウケると判断する。
最近ではもっと手抜きになって、SNSのフォロワー数で決まったりする。
内容よりもフォロワー数。
なぜなら、それだけフォロワーがいれば、本を出せば少なくともそのフォロワーの何割かは買ってくれることが確定しているし、フォロワーが多いということは読みたいものを提供する能力がると判断できるから。
それとは対象的に純文学系は書きたいものを頑固に書く。だから読者が何を読みたいなどには基本的に迎合しない。無論、今の世相がこうだからこんなものを書いたらどうかという提案はあるだろうけれど。
作者のベクトルが読みて、もしくはフォロワーに向いているのか、それとも自分自身に向いているのか、そこが大きく違う。
だから売れ行きも違う。
つまり、書店で多く売られている本はビジネス本や自己啓発系なのだから、内容の真偽はどうでもよく、消費者が買いたい内容という一点で書かれている。
その代表格はコロナにかからない生活習慣みたいな医学的真偽が怪しすぎる健康本だろうか。
ダイエット本も爆発的にヒットするものが出るけれど、それで本当に痩せるなんて話はあまり聞かない。もし本当ならば、ダイエットにはその本一冊で事足りるわけだから、ダイエット本がたくさん書かれるなんてことはないはず。
とまあ、真偽が怪しいものに関しては純文学系な視点では腹が立つわけで、それはそういう作品が好きな読者も同じ性格を持つ。
ところがこの世は怪しいものの方が魅力があるから、クオリティとしていいものよりも胡散臭いサプリメント的なもののほうが売れる。
だから、真面目な純文学系はそこに絶望してしまって、暗い性格になったり、批判ばかりする人間になる。
そう言えば、これは音楽も同じ。
クラシック音楽なんてそもそも階級社会の産物だし、ある程度の教養や経済力がある層にしかウケない。
そして、演奏家も真面目だから、作曲家のことを研究して、必死に練習して演奏するわけで、するとどんどん世俗から離れてしまい多くの人からは理解を得られない高尚なものになってしまう。
とは言え、高尚だと思っているのは本人だけで、とにかくその行為は一般受けはしない。
さらに大きな勘違いが発生して、そんな孤高な高尚まで行ってしまうと、これを理解できないのは愚かだとか、馬鹿だとか、そんなスタンスになりがち。
しかし、それでは食えないから下界に降りてくるのだけれど、総じてまともな演奏家が一般受けを狙った演奏会はピント外れなものが多く、
「頑張って無理してる…」
なんて涙ぐましいものになりやすい。
そこは初めから大衆を狙って、そこでウケることがおもしろい!という価値観で生きているプロが上手で、秋元康さんなどその超一級と言える。
とまあ、純文学系はウケが悪いから孤独になりやすい。
商売も同様で、商売がうまいところはウケ重視だから、クオリティはあまり関係なかったりして、怪しいところが多い。それはショップジャパンなどを見ていればわかる。
しかしながら、飲食店ではサイゼリアなどウケを考えながら、低価格でそのリミットまで美味しいものを提供するという真面目な企業もあって成功している。
とは言え、数で言えばそういう優良企業は数少なく、ショップジャパン的なもののほうが多い。
経済がとても豊かな時代はその逆の現象が起きる。金があるから、クオリティがいいものを金のことを考えずに買えるから。
というわけで、長く続く不景気、というか長すぎてそれが実力でしょ!なんていう時代には物事はクオリティで判断されることはあまりなく、わかりやすいもの、手に入りやすいもの、金銭的な負担が少ないものに消費者は流れる。
しかし、幸せと求めたり、生き方の答えを知りたがったり、「わかった」と思えるものが欲しいというのは辛いよね、なんてそこにニーズがありつつそう思う。
だって、自分が不幸だと思うのは自分のメンタルのせいであることも多いし、そもそも生き方に答えなんかないだろうしね。
要するにないものをねだるから辛くなる。
あるもので満足すれば、この世はそんなに辛いものじゃない。
でも、頑張れば手に入るものがあるなら、そこには懸命に努力すべきかな。
あるもので満足すると気が緩んでどんどん下に落ちるから。
と、自分が高尚だと思い、結果誰にも相手にされず孤独なのも嫌だし、かと言って、ウケは良くてもトンデモ健康本みたいに胡散臭い路線になるもの嫌だな、なんて思うわたし。
でも、どういう形であれ、自分がやりたいことができていれば、それをたった一人でも本当に理解してくれる人がいれば結構幸せだったりする。
違うかな?