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林檎のおわり

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結月でございます。

椎名林檎の特典グッズが問題視されているようで、それが「ヘルプマーク」と似ているからだという。

ヘルプマークを知らなかった世間知らずなわたしだけれど、見れば確かに似ているし、今はこういうパロディはあまり好まれない時代なのである。

わたしは椎名林檎ちゃんが大好き(だった)だけれど、今は新しいアルバムを買うことがない。買っていたのは東京事変の「スポーツ」までで、調べてみると2011年とあった。

やっぱり初期の「無罪モラトリアム」と「勝訴ストリップ」がいい。

わたしが林檎ちゃんを聴かなくなったのは林檎ちゃんが偉くなりすぎて、アングラ感がなくなってきてから。もちろんアーティストとしての変化だし、ますます芸術的になっていくのは素晴らしいけれど、「無罪モラトリアム」のときに感じた一体感がなくなって、林檎ちゃんが遠く離れてしまった気がして聴かなくなったのである。

でも、ヘルプマークに似たグッズは実はレコード会社かどこかが制作したもので、林檎ちゃん発案でないような記事も読んだ。しかしどちらにせよ、今までの「林檎的」なパロディをもとに作られた気はする。だって、看護婦の格好をしてガラスをぶち割ってる初期のイメージがあるから。

たぶん、ネットがまだそこまで普及していなかった2002年あたりまでだと問題視はされなかっただろうし、当時の林檎ちゃんのキャラにも合っていた。でも、今はちょっとそういうことが過敏というか、うるさいというか、騒ぎになってしまう。

グッズだけでなく、椎名林檎ちゃんそのものがもしかすると時代遅れなものになっている気もする。

というのは、純文学的なものは好まれないという傾向。

林檎ちゃんの歌詞はよく練りこまれているし、普通でないおもしろさはあるし、林檎ちゃんならではの純文学。ところがそういうものはヘヴィーなもの、なんだか重いよねって捉えられて敬遠される時代なのではないだろうか。

本当の純文学、詰まり純文学小説はそうなってすでに久しく、芥川賞なんて受賞結果もヤフーのトピックスで二日間くらいにしか話題にならない。純文学は面倒で、重くて、読む気しないということになって何十年も経過している。

なので、昔は「本を読む」というと純文学小説を読むというニュアンスがあったけれど、今はビジネス書とか自己啓発本だったりする。

音楽もそうなってきて、あまり個性が際立ったものはちょっと敬遠される。熱狂的ファンだけのものになってきている。

きっとコロナもあって、社会がなんとなく疲れていて、可処分所得はずいぶん長い間上がらないし、閉塞感なんて言われてどれくらい時間が経つのだろうと思う社会の中で、わざわざ重苦しいものに接したくない。

とまあ、余裕がなくなっているからで、林檎ちゃん的キャラもちょっと煩わしくなった気がする。

先日、病院の待合室で午後の情報番組がやっていて、AKB 48の誰かが出ていた。実にくだらない話をしている。日常にあったどうでもいいような話。そこに共演者が相槌を打ったり、質問をしたりする。

本当にくだらないと思ったけれど、こういう毎日やるテレビは内容がないからこそ続けられるのであり、わざと内容をなくしているということがわかった。

確かに毎日純文学的に真剣なものを見せられたらメンタルがやられそうである。だから、テレビはポテトチップスのように気軽にかじれるようなものがよろしい、というわけで、店主が凝りに凝ったこだわりの一品は毎日は嫌なのである。

さらにそこにYouTubeが追い討ちをかけて、再生回数が伸びるのはよく考えられていても深い内容でないものばかりで、とにかく気軽なもの。

内容がないものは悪いのではなく、内容がないからこそいいんだ。

ということがわたしは最近になってやっとわかるようになった。

そして、社会が複雑になればなるほど、人々に余裕がなくなればなくなるほど内容がないもののほうが愛される。重いのは勘弁してほしい。

今思ったのだが、これはお酒を飲むことも同じで、シングルモルトのどこそこの蒸留所の何年ものでどういうテイストなのかみたいな話は聞くだけで面倒で、そんなディープなお酒よりも、

「氷結がうまい!」

というわけである。

実はこれ、わたしの話で、高くていい酒なんかよりも氷結のグレープフルーツ味がマジでうまいと思っている。

オーセンティックなバーで一杯のシングルモルトを飲むお値段で氷結はケースで買える。そして、ウンチク不要で、ごくごく飲める。

つまり、お酒だって純文学は求められないのである。

とまあ、純文学的な個性ってものがちょっとウザったく感じられる時代になって、だからこそ林檎ちゃんほどのアーティストでさえグッズのことで批判されてしまう。芸術的立場の人が追い込まれるというのは、芸術的価値があまり尊重されていないという裏返しだと言える。

それは時代の特色であり、またこれからも変化していく。

そのうち内容がないYouTubeは無視されるようになって、もっと今とは違った内容のものが再生数を稼ぐようにもなろう。

そこには良くも悪くもなく、ただ現象としてそうなっていく。

ただ林檎ちゃん的なものの時代が終わろうとしているように思う。

そういえば、演歌というジャンルはほどんど聞かれることがない。それは演歌の歌詞があまりにも粘着質で、マイナス思考で、男尊女卑で、自虐的であるからで、とてもじゃないが今の感覚では酔いしれるどころか、聞くのも嫌という感覚にあるから。

しかし、演歌だって一世を風靡したこともあるわけで、林檎ちゃん的なものが、それがいくら才能があろうとも時代に合わなくなってくることは自然なことだと言えそうである。

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