結月です。
今日、宇都宮の書店、それも結構大きくて品揃えが充実している書店をふらついていて、天文学のコーナーで銀河系の図鑑を開いたりする。気が遠くなるような、光の速度で何万年もかかる距離にあるそれを見て、ため息をつきながらも憧れる。
そして古生物の本は恐竜以前の生物のイラストがあったりして、これまた気が遠くなってため息をつく。
いずれも到達不可能であるからで、だからこそ興味がわく。
さらにどうしても向かってしまうのは哲学のコーナーで、今更読みはしないのに眺めてしまうのはノスタルジーかもしれない。
そこにみすず書房から出された本で、それはわたしの恩師が翻訳したもので、うちの書棚にもある。どうやら昨年、新装されたらしい。しかし、恩師は鬱病になり社会性を失い、そこに痴呆も入ってわたしのことすらすぐには認知できないほどである。
そんな本の訳者あとがきを見ると、先生が頭脳明晰であった文章であり、それがあんなにグニャグニャな人間になってしまったことに寂しくなってしまってやりきれない。
訳した本は新装されても、訳した本人は劣化してしまう。
そして純文学コーナーでは数年前に読んだことがある芥川賞作家の小説があって、一応開いてみたら鬱陶しくてすぐ閉じた。
一見して小説だとわかる記述。こんなにくどくどと書かなければならないのかと思う。
そう感じてしまうのは、今がSNS時代で個人の言葉が氾濫しているから許容できる言葉は常に限界に達していて、そこにくどくどした小説が入り込む余地がないからだろう。
それに言葉の足し算を積み重ねたような小説は特に鬱陶しい。もっと引き算に引き算を重ねて、残るは行間だけというのがいい。
さて、ヒカリ座という宇都宮のオリオン通り近くにある名画座では、ウォン・カーウァイが5作品が4K版で上映されていた。観たいなと思ったが、上映時間を見るとそれは叶わない。保育園の送迎があったり、休みの日だって5歳児がいると駄目なわけでわたしの自由は制限される。
そんな不自由さに苛立つことは多々あって、やりたくもないママゴトに付き合ったりするのであるが、思えば愛娘がいたことによって得られたものもあることに気付くと、
「トントンやな」
というわけで、量的には何も失っちゃいない。
5歳児が中学生くらいになれば、ウォン・カーウァイの映画だって一緒に観られるだろうし、そういう楽しみは将来に期待する。
と、とりあえず今日はテレビでSPY×FAMILYを一緒に観た。
しかし、スパイファミリーの話は難しいから5歳児にはわかっちゃいない。アーニャがおもしろいから見ている。
どうやら来年は劇場版が公開されるようだからこれは観に行こうと5歳児と約束する。そんな来年はもう6歳児である。
小さい子供が一緒だと、メモリーはギリギリ、CPUはいっぱいいっぱいになるのだけれど、そんな状態で今年はよく公演を二つもやったものだと思う。
しかし考えようによっては、切羽詰まっているからその残り部分が圧縮されてできたともいえ、意外と人間はユルユルであると真面目に取りかからないものなのだ。
追い詰められているから真剣になれる。時間がないからこそ集中力が高まる。
ただ、余裕があればもっと優しくなれるとは思う。
ネット時代になって、人付き合いがSNSになって、コロナでオンラインになって、つまり失われたものは人間の「身体性」である。
おまけに写真を撮ればSNS用に美肌加工されてしまうのでは、自分の身体は常に希薄になる。そこにマスクなんかしたら自分はないようなものだ。
身体性が希薄化して、人間はどうなっていくのか興味深い。メタバースもますます本格化するし、これはおもしろいことになろうけれど、そうなったとき自分という身体を感じることがない時間が多いと人間は生きていけるのだろうか? もしくはそれに適応して、身体性という価値がないことに平然としていられるのだろうか?
身体が健康であればメタバースの中で生きることができようが、それを視覚的に捉えるのも眼球という身体で、また身体性が価値を失ったがゆえに起こる病気のせいで身体に苦しさや痛みを感じるとメタバースの世界に埋没できない。
メタバースを楽しむには健康な身体が前提となる。
身体的なリアリティがないテレワークなどをコロナで経験し、このスカスカ感はなんだろう?と感じる。
便利に違いないが、スカスカすぎてそこでのやり取りがあまり記憶されない。
きっとそれは実存の喪失に違いない。
SNSで自己主張できたりしている割に個々の実存は頼りないものになっている気がする。だからこそ、人間が平均化している。
と、そんなことを考えつつ、まもなく保育園も冬休みに入り、さて1週間もどうやって過ごそうか。これは人間から身体性が失われている現実なんかよりもわたしにとっては深刻な問題である。年明けの5日までに決算の資料は作らなければならない。時間はたっぷりあるのにまったく時間がない。
わたしが育児から離脱してやってもいいんだぞ、と脅しをかけてみる。