結月でございます。
シューマンは交響曲を4つしか書いていない。いやいや、シンフォニーを4つも書くってすげえことなんだぜ。だから、4つも書いている。
その中でね、一番いいのは、第2番なんだよ。第2番。
なんてことを言ったら、第3番でしょ!なんて言われそうだけど、それはね、確かに3番もいいけど、N響アワーで使われてたインパクトでしょ。
シューマンは第2番の冒頭で、ちょっとだけ神を見られたんだと思う。いや、あれは神を見た直どの旋律だね。
数ある音楽で何が優れているか、いや、優れてるなんて言っちゃいけないのはわかってる。でも、あえてそう言っちゃうのは、神に接することができた比率なんだよ。
だから、モーツァルトはズバ抜けてる。ベートーヴェンもすげえよ。でも、ベートーヴェンは逆立ちしたってモーツァルトには敵わない。それはベートーヴェン本人が一番よくわかってるはず。
ちなみにマーラーは自分はベートーヴェンには勝ったと思ってる。でも、モーツァルトにはどうやっても敵わないと思ってる。
バッハもいいね。バッハは時代的に恵まれていて、まだまだ神が身近にいたんだよ。
モーツァルトの時代になってから、いろいろと人間がうるさくなってきた。ところがモーツァルトは神と人間の仲立ちができたんだよ。で、ベートーヴェンは神から離れていく人間にやきもちしながら、いや、きっとそれが嫌でたまらなかった。嫌なんだけど、自分自身がそうなっていくことを真正面から認めたんだよね。だから、すげえ葛藤があった。神と自分自身との乖離の葛藤。
さて、シューマン。
シューマンは神からはそこまで愛されてない人間なんだよ。可哀想な奴なんだよ。でも、交響曲第2番で、少しだけ神を見ることができた。
それは第2番の冒頭なんだ。
やっと神を少しだけ見ることができて、その静かな満足が第3楽章になったんだ。だから第3楽章はとてつもなく美しいんだよ。
あれはチラッとでも垣間見せてくれた神への感謝の旋律なのだよ。
その歓喜が第4楽章。
嬉しくてたまんないんだな。
でも、どこかに少しだけ迷いがある。それって、本当に神だったのかなっていう迷い。
自分自身が神を見られるような人間じゃないかもしれない。だからそれは錯覚で、実は自分を騙している悪魔だったかもしれないという疑い。
でも、やっぱり神だと思う。あれは神だったんだと思うわけだよ。
だから、シューマンは第2番がいい。そして第4楽章の幸福感。
モーツァルトは神からのメッセージを何の苦もなく受信できたパラボナアンテナみたいな人だった。
でも、シューマンは凡人で、待てども待てども神からメッセージは来なかった。そして、自分からコンタクトを取ろうとして狂気になった。
自分は神から愛されていないとわかっていたんだ、シューマンは。
ところがほんの少しだけ、神に接することができた。ほんの少しだけ。
それが交響曲第2番。