結月でございます。
今日はあまり何もできなかったというのは、MacBook ProとiPhoneを同期しているのはいいけれど、なぜかMacBook ProのFinderにiPhoneのデバイスが認識されないという事態に手こずったから。
自分でいろいろ調べてわかり得ることは全部やったけどお手上げ。仕方がないからMacのサポートに電話。
すると、さすがのサポートもいろいろ試しながらうまくいかず「う〜ん…」と唸っていたけれど、最終的には問題は解決した。
サポートとの電話は40分ほどであり、その前は自力で調べていた時間もあるから、結構な時間を消耗したわけ。
でも、どうにもわからないものは人に訊くのがいいね。わからないものはわからないから、わかる人に教えてもらう。
というわけで、マロオケ・レクイエム公演のためにやらなきゃいけない業務がいくつかできなかった今日。明日明後日は保育園が休みなため、4歳児にずっと付きっきり。とどのつまりは月曜までは仕事はできない。
さて、わたしはものすごく久しぶりにCDを買ってしまった。それはモーツァルトのレクイエムでウィリアム・クリスティ指揮のもの。
CDを買うなんて何年ぶりだろうか? 2016年にマロオケでモーツァルトの交響曲を6つやってからは音楽的に満足してしまって、CD買うなんていう音楽的興味はなくなってしまい、それからはBGMとしての音楽もあまり聞かなくなった。
とは言え、小さな愛娘に音楽を触れさせるためにONKYOのミニコンポを買ってなるべく美しい音楽をかけている。
音楽はもうたくさん聴いたし、飽きたというか、もう咀嚼されて自分の中に溶け込んだからわざわざ聴く気もなくなったわけだけれど、今度レクイエムをやることだし、知らない演奏でも聴いてみるかとふと思ってウィリアム・クリスティのものを買ってみた。
これまでカール・ベームのものをずっと聴いていて、それはフランスにいたときにいつも鳴らしていたもの。CDだからいいようなもので、もしこれがLPレコードだったらとっくに擦り切れてるくらい聴いている。
あとはずっと後になってカラヤンのものを買った。これは今、愛車に積んであって、たまにカーオーディオで聴く。
とは言え、レクイエムは覚えるほど聴いているから、そんなに頻繁には聴かない。あとは太田区民ホールで生のサウンドにすることがわたしの使命。
そんな新しく買ったレクイエムを今日は4歳児と聴こうと思って、CDをマンションのほうに持ってきたのだけれど、いつもは起きている4歳児はご飯を食べてしばらくしたらいつの間にか眠ってしまっていた。
一人で聴こうと思ったが、さすがに大音量ではかけられない。仕方がないから明日に持ち越し。
ウィリアム・クリスティのモツレクもいいようだけど、まあ11月のマロオケには敵わないけどね。
マロオケのレクイエムがどんな演奏になるか、わたしはものすごく楽しみにしている。サントリーホールでの東京初公演のときとはまた違った意味でものすごい演奏になるんだろうな。
東京初公演のときは交響曲だけだったからモーツァルトの純音楽の美をとことん追求できたと思う。でも、今度はレクイエムなのでもっと人間臭くなる。しかしそれはベートーヴェンのような汗臭い人間臭さではなく、神の下での人間の姿。この西洋的な価値観である神に日本の東京で、日本人ばかりの奏者がどれだけ近づけるかも楽しみ。
しかし、今回はコロナ禍があったからこそやらなければならない公演なのだから、東京で演奏してもそれは世界的な祈りになるはず。平常時だとレクイエムなんて東京でやっても趣味にしかならない。
レクイエムは宗教曲であれど、コロナの受難という世界的テーマのためにマロオケの演奏は普遍化すると思うよ。
音楽が宗教的、文化的な隔たりを超えるコンサートになる。
2016年はモーツァルトの美しさを徹底的にやりたかった。そして2021年のこの公演は「やらなきゃいけない!」という猛烈な使命を感じている。
このプロデュースはお役目だと思うよ。主なる神がやれと命じているのだよ。聖書ではそういう神の意志が描かれるけれど、大袈裟ではあれど、わたしもそれと同じだと思ってやるよ。
本当はこのコンサートはチケット代なんか取らずに無償開放してたくさんの人に聴いてもらいたいくらい。
なぜなら、祈りは金を取るものじゃないからね。
でも、この世はそうはいかない。お金がないと演奏者にギャラを払えないし、公演というのは演奏者の生活を支えるものでもあるから。
でも、気持ちとしては無償で聴いてほしいものなんだよ。