結月でございます。
4歳児と一緒にいるわたしは、
「モーツァルトでも聞こうっと!」
と、CDをセットしようとすると、4歳児は、
「パ〜パラパラがいい!」
という。
ちょっとわかりにくかったけど、
「ああ、ディヴェルティメントニ長調の第3楽章ね」
と、CDをセット。モーツァルトがかかる中でママゴトを始める4歳児。それに付き合うわたし。
4歳児と二人でモーツァルトをBGMにしてママゴトをしていると、なんだかゴージャスな気持ちになってきた。何よりも音楽が美しすぎるし、音のすべてが天才すぎる。
そして、アイネクを聴いて、やっぱり美しい。
世界中で演奏されて、手垢がつきまくっているほど数えきれない人たちが演奏してきた曲なのに手垢がまったく感じることがなく、何度聴いても新鮮だし、古臭くない。
それは触っても触っても指紋がつかない宝石のようで、きっと自分の指紋を付けたくてたまらないのにどれだけ触っても指紋がつかないからこそ、モーツァルトは今もなお演奏され続けている。
そしてディヴェルティメントのヘ長調。いきなり出だしから旋律が天才すぎてぶっ飛ぶ。単純なのに神々しい美しさが現れてくる。これだからモーツァルトはたまらない。難しいことをやっていないのにとてつもなく美しい。頭の中から脳味噌が吸い上げられるような感覚で恍惚となる。
聴いていて神界が見るような気持ちになるのはモーツァルトだけ。
さて、一昨日は4歳児が愛してやまないアナ雪のエルサのジグゾーパズルをやる。このときのBGMはわたしのチョイスでサン=サーンスの交響曲第3番オルガン付きだった。
オルガン付きはこれまたいい曲でたまらない。
しかし、サン=サーンスはこの3番が有名。ということは1番も2番もあるということかと今更ながらに思った。1番と2番なんて聴いたことがない。サン=サーンスだからきっといい曲なんだとちょっと興味が出てきた。CDが出てるなら買ってみようかと思う。
そんなサン=サーンスが終わるとCDはフランクの交響曲ニ短調だったが、やはりロマン派は立て続けに聴くと鬱陶しくなってきてステレオを消した。
「ごめん。フランク。いい曲なんだけど、今度は単独で聴くことにする」
思えば、サン=サーンスのオルガン付きは大好きな曲ではあるけれど、今や年に数度しか聴かない。いや、10回は聴いているかもしれないが。
それに対してモーツァルトは毎日聴いていたりする。
モーツァルトは曲が多いということはあれど、やはりモーツァルトは手垢がつかない宝石であって、聴き飽きることがない。
そういう意味でモーツァルトは別格なのである。
それはわたしの個人的見解を飛び越えて、世界の一流音楽家に訊いたって間違いなく異口同音に、
「モーツァルトは別格」
と答える。
さて、今年のマロオケ公演もまたしてもモーツァルトだ。
2016年はモーツァルトの交響曲を6つやった。
2018年の船橋公演は船橋市からオーダーされたものだったから、モーツァルト、メンデルスゾーン、ベートーヴェンと演奏会としてのノーマルな構成にした。
そして2021年はオールモーツァルトで交響曲第31番、第38番、レクイエム、アヴェ・ヴェルム・コルプス。演奏会としてはアブノーマルな破壊力。
やっぱりこれくらいはやりたい。もうそれは欲望であり、形式は考えない。
別格の作曲家の、別格の曲を、別格の演奏者たちで、別格の演奏会規模で、別格の感動をもたらそう。
一日一日、11月22日に近づいている興奮。