結月でございます。
ふぅ〜 今日でやっと保育園のお盆休み、4連休が終了。涼しくて助かったとはいえ、連日の雨で行けるところは制限されたため、保育園児の退屈を潰すのは苦労した。
そんな今日は「あしかがフラワーパーク」へ。ここは藤棚が見事で有名だけれど、夏場はバラと蓮くらいしか咲いていないから入場料も500円と安くなる。ここは花の咲き具合で料金が変わるのである。
一応平日である今日、そしてまだ雨も降るか降らないかというわけで、人はまばら。それ以前に見る花が少ないか。
でも、そこを選んだのは縁日と称して、小さな催しをやっていたから。
さて、あしかがフラワーパークはわたしも好きな場所で、とても風水がいいというか、心地いい。
花がよく管理されていて綺麗というのは当然として、園内にかかるBGMがバロックやモーツァルトで音楽が美しく、花の風景に実に合うのである。
今日もバッハの無伴奏やハイドンだったりしながら歩いていると、横を歩く愛娘が、
「あっ!モーツァルトだ!」
と言う。
「そうだね。アイネクの第2楽章だね」
わたしがモーツァルトばかり家でかけるものだから、4歳児にとって音楽はモーツァルトなのである。
しかし、反射的に「モーツァルトだ」と言ってくれるのはうれしい。わたしもそう言おうと思っていたから。なかなか話せる相手である。音楽の美しさを瞬間で共有できる。
ちなみにわたしが最も嫌いなのは、美しい音楽が鳴っていてもまるで耳に入らず、スマホでデカい声で喋ったり、動画をお構いなしで見るような種族。悪いけど、そう言う人とはお付き合いできない。
しかし、アイネクの第2楽章は恐ろしく美しい。美しすぎて失神しそうである。なんたる美しさなんだ。美しすぎて思考停止になる。どうしてこんな音楽が書けたのだろう?
園内でかかる音楽はどれも美しいけれど、モーツァルトは一際抜きん出ている。世界が違う。次元が違う。
アイネクの第2楽章なんて、あまりにも有名すぎて今更どうこう言うような曲でないはずなのに、気が遠くなるほど美しい。
それに不思議なことにモーツァルトの音楽は自然の音に溶け込むのである。第2楽章は流れていながら、たくさんの蝉が「ツクツクホーシ!」とやっている。それがまるでぶつからない。さらにそばには鉄道が走っていて、ガトンゴトンと来る。それなのにアイネクの第2楽章はすべてを抱擁し、蝉の鳴き声も電車の音もパーカッションにして一風景にしてしまう。
それがとてつもなく美しい。
コンサートホールで純粋に音楽だけ聴くのとは違った音楽的空間があしかがフラワーパークにある。
おすすめは藤が満開になる4月下旬から5月。その夜の部。ライトアップされた花々にモーツァルト。
それは音楽は音楽だけで存在するものでないことを体感させてくれる。
音楽は自然から生まれているものなのだ。そこから抽出されたもので、だから考えようによってはそのエキスをコンサートホールで音楽のみで聴くのは間違いなのかもしれない。
さて、わたしはやはりクラシック音楽ではベートーヴェン以前が好きで、つまりモーツァルトまで。
モーツァルトとベートーヴェンは音楽史として大きな転換期と言える境目。
モーツァルトまでは音楽はイデアに従うものだった。
イデアとは美しさの源で、イデアがどこかにあり、それを感じ取って音楽にする。音楽とは自分で考えるものでなく、天界にあるイデアの泉から感じ取って書き留めるものだったのである。
ところがベートーヴェンが出現して、音楽を俺様のものにしてしまった。俺様を発信地にしてしまった。
もし、あしかがフラワーパークでベートーヴェンのシンフォニーなんかが流れていたら最悪だ。冗談じゃない。消せよ、その音楽!となる。
言ってみれば、一番わかりやすいイデアは花かもしれない。花の美しさは花にあるのではなく、花の美しさと言うイデアがこの物質界の花に宿ってその美しさとなっている。
そして、音楽はモーツァルト。人類史上、最も多くのイデアを受信し、最も的確にそれを音楽に再現したのがモーツァルト。
あとは好みの問題だろう。ベートーヴェンが死ぬほど好きな人もたくさんいる。俺様発がいいんだと言えば、それも間違いじゃない。
わたしはイデアのモーツァルトが好き。音楽はイデアに導かれた時代のものがやっぱりいいと思う。
とはいえ、モーツァルト以前しか聴かないわけじゃない。マーラーだって好きだし聴く。でも、やっぱりモーツァルトに戻ってくる。
そんなモーツァルトを聴きながら花を見て、4歳の愛娘はハミングでアイネクの第2楽章を歌っていた。
話が通じる相手ができたというのはうれしいものなのである。