結月でございます。
先日、ミラン・クンデラの『冗談』を読み終えた。中国へ行ってから読み始めたから、3週間ほどってこと。五百数ページ。愛娘と一緒だから、本を読む時間がまとまって取れなかったり、集中する時間が少ないから本を読むスピードは落ちているというか、時間がない。
でもこの小説、すごい小説っていうか、まあ時代だよね。共産主義が怖かったときのチェコ。それをリアルに知らないわたしは多分、あの小説の凄みを3割も理解できていないと思う。
訳者のあとがきにはサルトルのコメントも書かれていて、確かに時代的に当時のサルトルにとってはマジリアルだった。
結局、小説の力強さって時代なんだよ。才能じゃない。時代に凄みがあれば、小説も凄みがあるものが出てくる。
今の日本ではそんな小説は出てこないので、つまり日本はいろいろあってもいい時代、豊かな時代だと言える。
というわけで、クンデラの『冗談』は時代的にはいま読む価値があるかはわからない。でも名作は時代を越えた人間的なリアルに迫っているからわたしみたいなチェコの悲劇を知らない人間が読んでもおもしろい。
小説的には後半はタレ気味な気はしたけれど、あれだけの長さの中、主人公ルドヴィークの兵役のところが凄みがあって、その効果のおかげで最後まで読める。
そんなチェコのことは知らないにせよ、冷戦時代の共産主義の怖さというか、その本質というのがこの小説を読んでよくわかった。
それは中国の文化大革命にも共通していて、なるほどイデオロギーで政治的支配するってああいうことなのかと知識でなく、体感でわかった。
しかしながら、ああいうのって共産主義ではわかりやすい結果になったとは言え、今の日本だって同じような環境もあるなって思った。
それは新型コロナによる日本人を見てもそうだし、会社のパワハラだってそうだろうし、子供は自然妊娠で、痛い思いして産むのがノーマルみたいななんとなくの圧力的空気もそうだろうしね。
日本は政治体制が共産主義でないだけで、社会的空気は共産主義的かもしれないよ。
ところでもう数年前から読書量がめっきり減ってしまったわたしだけれど、それは読みたい本がなかったり、インプットに興味がなくなったりしたせい。
そんなことを言いつつ、今後読む本はこんな具合。Amazonに発注して、すでに手元にある。
①『悪童日記』(アゴタ・クリストフ著)
②『怪物』(アゴタ・クリストフ戯曲集)
③『実験する小説たち:物語るとは別の方法で』(木原善彦著)
とりあえず『実験する小説たち』を読み始めたけれど、これは大したことなさそう。まあガイドブックとしてはいいかもね。でも、本の紙が安っぽすぎて、
「彩流社って、そんなに金ないの!?」
と、思いつつ、聞いたことない出版社だし、内容からして絶対に売れないだろうし、だから価格は2420円と高いし、しょーがねえかって気持ち。
知らない小説がガイドされているから、それを読んでみるきっかけにはいいかも。
アゴタ・クリストフは知らない作家だけど、最近、この訳者のインタビューがあっておもしろそうだったから買った。そして戯曲もあるからこれも同時購入。
わたし、戯曲大好きだからね。小説より戯曲が好き。
でも、戯曲って売れないから出版点数も少ないし、書く人も少ない。
売れないってことは戯曲のおもしろさを理解する人が一般的には少ないってことなんだろうな… 言葉的には小説より絶対戯曲がおもしろいんだけどなぁ…
と、これらの本を育児しながら、ちょぼちょぼ読むよ。
ところで小説ってさ、何かの目的のために読むものでないからいいよね。つまり、ビジネス本とか自己啓発本のようないやらしさがない。
ああいったものって、金持ちになる方法とか、ダメな自分をイケてるようにするとかスケべな目的が事前にあるからいやらしいんだよ。それでいて、そんなもの読んだって目的達成はできないという詐欺的なところがあるじゃん。
だからさ、やっぱ本を読むなら小説みたいな読んだところでどうにもならないってわかってるものがいい。
それを評論したり、書評したりするっていう種族もいるけど、そんな仕事する人ってキモいよね。
ってことで、本なんて暇潰しに読むようなものなんだよね。