結月です。
津原泰水っていう小説家が幻冬舎から文庫が出される予定だったけど、同じ幻冬舎から出版されている百田尚樹の「日本国紀」をツイッターで悪口を書き続けたら、文庫の出版を断られた。そして、幻冬舎の見城社長が部数をツイッターで書いてしまったら炎上して、こんなことになったみたいです。
このことに関しては数日前にもわたしは記事にしました。
幾人かの作家が実売数を晒すことを批判していますが、どうも作家というのはプライドが高すぎるんだなって気がします。
出版という世界が著しく古臭い体質のままなので仕方がないけど、本の価値は部数だけじゃないみたいなお花畑な主張もどうかなと思うわけで。
だって、全体的に本がすごく売れていた時代ならそう言える余裕はあったとはいえ、今はキツキツであり、現実的には売れている本の収益が売れない本を支えている。
だから本の価値はもちろん部数だけではないけれども、そこにフォーカスしすぎると芥川賞作家の柳美里がマジで売れていない雑誌にずっと原稿料をもらえずに書き続けて、自分の生活費もなく、飼い猫のご飯も買えず、息子の貯金箱に手を出すなんて悲劇になる。
本の価値は一つには絞りきれない。部数だけではないけれど、部数も一つの指標にもなる。そもそも出版という形式には必要経費がかかるし、売れなければ作家は部数分の印税はとりあえずもらえても出版社の社員に給料が出せなくなる。
現実的な事情が会社にはあるのだから、会社を維持することの困難さも含めて批判する人は理解する必要がある。
しかし、作家というのは会社で働いたことがなかったり、経営とは真逆な生き方をしてきたタイプが多いので、そういう理解は得られにくい。
実はわたしも昔だったら今回の見城社長を批判していたタイプだと思う。でも、コンサートを主催して変わった。演奏者にギャラは払うし、ホール代なども巨額だし、広告費も同じく巨額で、コンサートホールに実売でお客さんを埋めないと自分の会社は終わるっていう大勝負をしたから、見城社長の気持ちがよくわかる。
出版も同じようなリスクを背負って本を出すに違いなく、その収益を作ってくれている本を同じ会社からだ出す作家がツイッターで悪口を書きまくるというのは、表現の自由とかそういう崇高なものではなく、ただの下品で、自分が悪口を書いている本の収益のおかげで実は自分も本を出せるということがわかっていないのではないか。
わたしだって、もしコンサートを同時に二つ抱えていたとして、片方の演奏者がもう片方の演奏者のことをボロカスに悪口をツイッターで書いたなら、その奏者のコンサートは主催しない。
そして、こんな記事もあった。
津原サイドについている人たちのツイッターも見て見たけれど、それもひどいものだった。書評家の豊崎由美もひどかった。
豊崎由美は「文学賞メッタ斬り!」はおもしろくて、すごく本を読み込むんだなって思ったけれど、いくら見城社長のことが嫌いでも、その悪口はやっぱり文学を扱う人間としてはこれまた下品だし、偏りすぎだし、酔っ払いのようなツイートでガッカリした。
そして何よりひどいのは当の本人である津原泰水のツイッターで、小説家っていうのは人格的におかしくても作品が美しければオッケーなんだけれど、流石にあの調子でやられたら出版社としては本を出すのを諦めようと思うのは当然だと思った。
百田尚樹のことが相当嫌いのようだけど、執拗な悪口の言葉の連続は結局批判の相手と同じかそれ以下にしかならない。
わたしも百田尚樹の歴史認識はどうかと思うし、だからわざわざ彼の本なんて読もうとは思わないけど、それは百田尚樹がエンタメであり、歴史学者ではなく、だとすればそんな人が書く本はエンタメなのだから最初から相手にしない。
そういうエンタメがわかってて好きな人やエンタメなのにガチに思っちゃう程度の人は買えばいいし、もともとの著者が歴史の専門家でないのだから真に受けてそんなに目くじら立てる必要もない。
それなのに悪口をツイッターで書き続けるのは、そういうところすら津原泰水って人はわかってないし、そこに同調する人たちも理解していなくて、変なヒューマニズムやセンチメンタリズムで批判しているだけじゃないかな。
もし文学に関わるのであれば、森羅万象、あらゆる人間の心理やハートを理解できなくちゃ。殺人犯であっても、フェチの変態であっても、虐殺を引き起こした指導者でも、人間がいかなるものかを好き嫌いではなく、捉えなければならない。
その理解は賛成するという意味ではなく、人間のあらゆるものを直視し、外科医のように分析すること。
だから、見城社長が実売数を公開してしまった経営者としての人間の葛藤を理解できないというのは、作家であり、書評家であってもそれは未熟すぎると思う。
確かに見城社長が安倍晋三にベタベタであったりするのは気持ちが悪いなってわたしも感じるけど、わたしは見城社長がラブラブになってしまう安倍晋三はどんな人間で、実際にはどんな魅力があるのだろう?ということに興味がある。
政治手法は別として、そこには何かがあるはずで、安倍晋三の政治よりもそちらにわたしは興味がある。
だから添付したLITERAの記事はひどいと思う。いわゆるウヨクに対するサヨクなメディアなのだろうけど、今回の件と見城社長と安倍晋三のこと、そしてテレ朝の審議委員長を見城社長が務めていることの記述は論理的に関係がないし、記事の作り方は大変悪質だと思う。
さらにこんなこともある。
内田樹という文学者が、作家は幻冬舎と仕事をしないことを宣言すべきだと言ったりしていて、おいおい、それこそが言論弾圧じゃないかって思う。
幻冬舎と仕事をするかどうかはその作家の個人的判断であるべきで、仕事をしないと宣言すべきというのは逆側の権力による抑圧じゃないか。
例えば、「日本国紀」を日本の中学校で教科書として採用するという政治判断がなされたりすれば別だけれど、あの本は買いたくなければ買わなくていいし、売れているというだけで何の強制力もない。
そんな本を発端にした社長の対応が気に入らないからと、幻冬舎との絶縁を促すというのは、自分の体臭が臭わないのと同じ原理なのだろう。
さらに作家の花村萬月さんも参戦してしまって、こんなことになってる。
全文表示 | 見城徹氏ツイッター停止に「なに日和ってんだよ」 批判派の花村萬月氏、ダメ出し残して自らアカウント削除 : J-CASTニュース
このツイッターも全部読んだけれど、それは見城社長の角川時代の話で、そんな古い話を持ち出すのもどうかなと思った。
もし今の見城社長も変わらぬまま同じならわかる。しかし、花村萬月さんがそれを確認したとは思えない。
でもさ、人間って変わるよね。未熟さゆえの失言なんて誰しもいくらでもある。あの時はこう思ったけど、それは間違いだったって今はわかってることもいくらでもある。
だから、その人の過去の発言を今になって持ち出して、それで人格を決めてしまうというのは違うんじゃないかって思うわけ。
そして、ツイッターで過去に言われたことを晒して、当の本人たる花村萬月さんもツイッターを辞めてしまうのだから、これまた無責任な話に見えてしまう。
しかし、作家ってどうしてこうも実売数を公表されることが怖いんだろう? もしわたしがその立場だったら全然何とも思わないけど。売れなかったら、悔しいし、出版社に迷惑かけちゃったなと思うし、現段階で売れてなければ自分でも懸命にPRして売ろうと思う。そのためには書き手が自分の実売数を知ることはすごく大事。本ってやっぱり売れてナンボ、読んでもらってナンボだもん。
そういう努力が出版不況なのに作家に足りないんじゃないかな。
それに今はブログだって、アクセス数やPVなんて自分の管理画面でわかるわけだし、そう考えても出版業界の作家に実売数を知らせないっていうのは古すぎる。
また幻冬舎の編集者、箕輪厚介さんのことも悪く言う人もいて、どうもそういうのを嫌うっていうのは厳しい現実が見えていなくて、やっぱりお花畑なんだと思っちゃう。矜恃なんて言ってる時点でお花畑。そういうのはまず足元の現実を固めてからの話。
会ったことはないけれど、箕輪さんは文学系の編集者なんかよりはるかに自分の本を多くの人に知ってもらい、買ってもらおうとすごい努力をしていると思うよ。
だから、津原泰水の幻冬舎の代わりに出すことになった出版社の編集者が、
「この本が売れなかったら、私は編集者を辞めます。」
というコピーをつけたのは、笑えるっていうか、お花畑だと感じる。
編集者辞めるんだったら、辞めろよってね。そんなの、お前の勝手だし、それで会社の社員を食わせていけんのかよ。そんな悠長なことを言えるのは、てめえが食えるだけの給料を十分もらってるからだろ?なんてわたしは思う。
いや、編集者として、つまり小説を読み込む力はすごいのかもしれない。ただそのことと売れなかったら編集者辞めますっていう感性は別だし、辞めたからといって現実は何も変わらないし、そういう切腹的な潔さを口にする人って総じて切腹しない。だから語法として古いんだよ。
ともかく、経営をやったことがある人とそうでない人の比率は圧倒的に前者が少ない。だから、経営をして、会社が潰れるかもしれないというとてつもない恐怖をほとんどが知らない。知らないのに給料はよこせと言う。
そんな比率の悪さのせいで、今回は見城社長に分が悪かった。
そして、見城社長の傲慢なイメージがさらに批判を招くことになった。
この騒ぎに関しては、わたしは見城社長の気持ちがわかるけど、別に会ったことはないし、メディアを通しての情報しか知らない。会ってみればイメージと違う人かもしれないし、イメージ通りかもしれない。ただそんなにヒステリックに批判されるほど、彼が悪いかというとそうとも思わない。
しかし、そんなことはどうでもよく、津原泰水という人、そして豊崎由美さんらのツイッターを見てみて、彼らが発するツイッターでの言葉も知性がなく、薄汚くて、とてもじゃないけど賛同しようとは思えなかった。
結局はツイッターを通して自分の本の文庫化がキャンセルされた作家がいて、ツイッターによって炎上した社長がいて、ツイッターによって自分の言葉の汚さを暴露してしまった人たちがいたということか…
ツイッターのように反射的に発信できるツールはやっぱり危ないってことかな。