結月でございます。
もともと上方の人間であるわたしは蕎麦よりうどんであり、子供の頃は年越し蕎麦くらいしか蕎麦は食べなかった。
蕎麦が嫌いだとかそういうのではなく、食べるものではなく、食べる文化がないのである。
東京へ来て立ち食い蕎麦を食べるようになってから蕎麦好きになったのだが、それでも最初の頃は東京の食べ物はどうしてこうも味が濃くて、料理のセンスがないのだろう?と思ったものだった。
今は東京に地方から料理の上手い人たちが出店しているから、東京こそ美味しいものが集まる場所にはなってるとはいえ、根本的に東京は料理は下手だと思う。大阪のほうがセンスは自然にある。
それが如実に現れるのが「焼き鳥」であり、東京の焼き鳥は実にまずい。センスの欠けらもない。
大阪は焼き鳥が本当に美味しく、あれがノーマルと思っていたものだから、今でも東京の焼き鳥を食べるとまずくて驚いてしまう。いや、東京だけでなく、その近辺も同じか。
さて、蕎麦に話を戻すと、まずいと感じていた東京の立ち食い蕎麦も食べているうちにだんだん美味しく感じられ、今ではうどんはさっぱり食べなくなってしまった。
めんつゆだって、上方の昆布ダシの薄いものより、東京のガッツリと濃厚なほうが合うようになり、たまに蕎麦屋によっては関西風と関東風を選べるところがあり、わたしは迷いなく関東風を選ぶ。
昨年末から栃木に来てみると、こちらには蕎麦屋がたくさんあり、手打ちをいたるところでやっている。
それは栃木では蕎麦が採れるからで、こちらの土地が蕎麦が生育するのにいいのかもしれない。
蕎麦が好きになってもう随分になるけれど、蕎麦がどうして美味しいのかはわからないでいる。つまり、焼き鳥であればこの脂身がね、なんて話ができるのに、蕎麦というのは言ってみれば味も素っ気もないものなのに美味しいと感じる。
特徴的な味もないとなると、それはめんつゆを味わっているのではないかと思うも、めんつゆだけだと飲む気はしない。
そば打ちはやるとこだわりが強まってきて、それを極めたくなる病理があるようだが、それはヴェルモットを極限にまで抑えながら風味はゼロにせずにドライを極めるドライマティーニと同じようなものかもしれない。
わたしはこだわることはバカだという立場に今いるので、食べるものなんかにこだわりは持たないようにしている。
そういうのを持つのは浅はかなグルメマニアとか、食い意地の張った下品に見えるし、そもそも美味しさは主観による傾向もあるし、食い物よりももっと大事なものがあると思っているから。
だから、そこそこに美味しければ大満足がゆえに、栃木のうまい蕎麦屋を追求しようとは思わず、「あっ、蕎麦屋がある!ちょっと食べて行く?」みたいな具合で立ち寄り、普通に美味しいお蕎麦を食べて満足し、ついでに店の人とも仲良くなる。
何かと食い物にウンチクがあるこだわり屋は店に嫌われるに違いなく、そういう意味で「食」というものは自己中心的にこだわらず、総合的に味わってそれで良し。
とはいえ、極端にまずいもの、料理に対して愛情のないものに関しては口にしたくない。
時々、娘を保育園へ迎えに行く途中にある道の駅で栃木の鹿沼で作られた蕎麦を買う。普通にパックで売られていて、家で湯がいて食べるものである。
これは十割蕎麦ではなく、少し小麦粉を混ぜているがなかなかに美味しい。
わたしは十割蕎麦には絶対的価値を感じていなくて、つなぎに小麦粉を使ったほうが粘りのある食感になり、そして食べやすくコクも出るのでそれでいいと思っている。
そして家で使うめんつゆは栃木のJAが出しているもので、日光の水で日光で作られたもの。これはボトル入りにしてはわりに美味しい。
スーパーで売っている大手メーカーのめんつゆはそれほど美味しくないと思うけれど、これは結構イケる。
そんな鹿沼蕎麦を湯がいて、蕎麦が、というよりわたしに似て麺類が好きな2歳の愛娘と一緒に食べる。
たまには外で手打ちそばを食べたくなる一方で、家で食べる鹿沼の蕎麦も美味しくて、栃木というのは蕎麦がうまいのである。