結月です。
18kgほど体重を落として、現在はそれ以上落とすこともないのであるが、食事は決まった分量、そして一日90分はエアロバイクでエクササイズを欠かさないのでじわじわと体重は減っている。
これだけ体重が変わると腕の太さも変わるもので、腕時計のベルトがことごとく合わなくなってしまい、時計屋に行ってコマを外してもらったりする。
しかし、それでもまたユルユルになってきたので、また時計屋に行って調整してもらう。
愛用のグランドセイコーは丸の内のセイコーカスタマーで減量前にコマを一つ増やしてもらった。そのときはデブ状態だったからである。
ところが体重が減ってしまうと手首の上で時計がくるくる回るほどになった。なので増やしたコマをまた外してもらったらややキツい。ということでまた丸の内のセイコーに行って今度は半コマを足してもらいちょうどよくなった。
さて、わたしはセイコーが好きである。誇るべきニッポンだと思う。
そして長らく銀座の住民であったから、化粧品は資生堂、時計はセイコー。この2社は銀座のシンボルであって、わたしには資生堂の血が流れ、セイコーの拍動が響いている。
グランドセイコーの文字盤はシンプルだからいい。そしてスプリングドライブの滑るように進む秒針の動きは美しいだけでなく、時は刻むものでなく、時は流れることを感じさせる。
わたしは年々、ミニマリスト傾向が強くなっていて、とにかく無駄で余計なものを受け付けない。説明的なものはお断りで、とにかくシンプルに、必要なものだけに削ぎ落とすのがいい。
音楽でいうとモーツァルトだろうか。
であるからして、時計もシンプルがよく、シンプルに時を示してくれるものがいい。
それゆえにフランク・ミュラーみたいなのは鬱陶しく見える。なのでほしいと思わない。
とはいえ、フランク・ミュラーはその「時」があまりにも天才的で、まるでジャン・コクトーの映画のようである。だからすごいなと思うのであるが、時刻を見るには演出が濃すぎてやっぱり鬱陶しい。
無駄なものがないとなると三針でも秒針が邪魔で、二針がいいように思う。正直のところ秒を気にすることは日常ではない。
やはりシンプルでありながら美しいのはパテック・フィリップのカラトラバであって、シンプルに気品が漂っている。
あれに比べるとグランドセイコーも重々しくて野暮ったく見える。
腕時計は機械式が重宝されるが、最近クオーツがいいように思うようになった。
機械式はどうしても歯車が多く、時計が分厚く、重くなる。しかしクオーツは軽くて薄く仕上げられる。
ミニマリストとしてはとにかく軽くて負担がないのがいい。
なので愛するセイコーではグランドセイコーよりもクレドールのほうがいいかもとも思う。
わたしのクレドールはものすごくシンプルな三針で、文字盤も数字でなく全て線だから余計なものがない。そして軽くて薄い。
同様にオメガのコンステレーションは古い型のクオーツだが、これも薄くて軽く、負担がなくて大変使いやすく気に入っている。
しかし、現行のコンステレーションは分厚くてゴツいので、代理店で見せてもらって、
「これはいらない…」
と、思った。
薄さと軽さではシチズンのエコドライブもいい。しかもこれは電池は要らないし、電波で時刻合わせしてくれて狂うことがない。機械式のような色っぽさはないものの、実用を考えれば大変よろしい。しかしながら、シチズンはデザインがちょっとダサい気がする。
今気になっているんのはティソのPRXで、いわゆるラグスポだが、デザインもシンプルでさっぱりしているところがいい。
しかもムーブメントはETA社の80時間駆動する自動巻きで、それなのに価格が手頃でヒット商品である。
これのアイスブルーが美しくて、また実用的であるから使い勝手がいいように思う。
時間は「感じ」るものであるから、腕時計から得られるフィーリングがある。フランク・ミュラーだときっと時間はアートのように歪んだものだろう。
しかしわたしは時間はシンプルに過ごしたいし、正確に進んでいてほしい。だから余計なものがなく、コテコテしていなくてスッキリしたものが腕の上にあってほしい。
ところが今はコテコテ路線の腕時計が多く、サイズもデカい。90年代くらいのロンジンのクオーツなんか無駄がなくていいように思うが、ロンジンは今のはちょっとコテコテしている。
クオーツは軽くていいと思うようになりつつ、使っていないときも秒針は動いていて、ちょっとそれが忙しないようにも感じる。
使う時にジリジリと巻く機械式、特に手巻きが時間を補充する感覚があって人間味がある。
さて、わたしはいい腕時計といい筆記具を持った女が好きである。
いい腕時計をした女は意外に少ないし、筆記具も同様。そこに関心がない人が多いせいだろうが、たとえ洋服が上質でもそれがないとちょっと詰めが甘いように見える。
いい腕時計をしていると時間をエレガントに扱っているイメージも感じられるし、ちょっとした手帳への記入がモンブランやパーカーの銀製だったりすると約束事への信頼感が見える。
時間を大事にすること。自分がどういう時間を過ごしたいかということ。
スマホでも時間はわかるが、やはり色気がない。
しかし、自分がどのように生きるか、どのような時間の中で生きたいか、そうした哲学がその人にないといい腕時計をしていてもただのカッコつけにしか見えず、薄っぺらい。
腕時計のウンチクを語る人はものすごく多いけれど、自分がどういう時間を過ごしたいか、自分がどう生きたいかを明確に語れる人は少ない。
わたしは時間を死へのカウントダウンと捉えていて、スプリングドライブの流れるような秒針もクオーツの着実な時の刻みも今生の残り時間の減少に見える。
これは悲観的なものでなく、わたしは死を楽しみにしているからこそ、この世に生きられる時間を大事にしたいし、残された時間の中で自分が何ができ、何を遺せるかに興味がある。
死までの時間にどういう味付け、どういう色付けができるか。
それは自分が創り上げていくものであるから、時計はシンプルなのがいい。時計に変な演出をされたくない。時計は時間をシンプルに示していてほしい。余計なことはせず、最低限のことを、ただし上質に、エレガントに、正確に進めてほしいと思うのである。