結月です。
小中学校の先生がブラック状態で勤務していることは知られた話で、今日も教員不足の記事があった。先生がブラック下にあるような学校には子供は預けられないな、と思う。
しかし、特に公立の先生は公務員であるせいか、そんなブラックでも辞めないのだろうか。一般企業でそんなブラックならすぐに転職を考えるが、学校の先生は学校の先生しかやったことがない人たちばかりだから転職という発想も実力もないのかもしれない。
あとはアイデンティティが学校の先生として固定されているので、ブラック下でも先生として振る舞わなければと頑張るのかもしれない。
でも教員が不足していてもそこで自分がいなくなっても実はどうにかなる。短期的には困ることもあろうけど、自分がいなくなったところで世の中には大した影響がない。自分がいなくなると周りが困るとか迷惑がかかるなんて妄想もいいところで、自分の代わりはいるものだし、いなければいないなりに変化するだけだからどうってことない。
総理大臣でさえ突然死したって、1ヶ月くらいはバタバタして大変だろうけど、ちゃんと新しい総理が選出されて日本の国は存続していく。
であるからして、ほとんどのケースで代替可能なのである。
だから、責任感があって自分がいないといけないから辞められないとか、愚かしい考えだと思うし、実はそれって自惚れじゃね?とも思うし、単にプライドが高いだけでしょ?とも思う。
かといって、本当に無責任で、信用できないキャラで、何事も続かないのは困る。そういうのは周囲が困る。
広末涼子が不倫をして、多分長い時間干されるであろう。広末は女優としては一級だし、映画としてはいてほしい女優だと思う。
でも、広末がテレビや映画に出なくなって日本国民が困るかと言えばそうでない。直近のスポンサーはいい迷惑でいい加減にしろと思うだろうが、別に広末でなきゃいけないものはそんなになくて、いなけりゃいないで映画は撮れるし、CMだって作れる。
有名女優だって、それくらいの価値しかない。
映画監督として偉大だった黒澤明が亡くなっても日本映画はなくならなかった。新しい黒澤映画が見られないというだけの話だが、黒澤さんは晩年は生きていても頻繁に映画を撮っていなかったわけだから、いてもいなくても別に変わらない。
市川猿之助が歌舞伎に出なくてもその代役が出てくるし、集客力が失われるという危惧もそもそも猿之助が出ていても歌舞伎全体では衰退だったわけで、猿之助の分の集客が減った事実はあれど歌舞伎が斜陽なのは変わらない。
そんな人たちでさえ変わらないのだから、そのへんの学校の先生が辞めたところで社会に影響はないし、どこかのサラリーマンが辞表を出したところでどうってことはない。
でも、人は求められたい。あなたが必要だと言われたい。いないと困ると言われたい。
だからそうは思っていなくても、
「いてほしい」
と、嘘でも呟いてあげたりもする。
プライドをケアしてあげるのがトレンドになっているが、現実はあんたなんかいなくても大丈夫。
これからはAIが社会に浸透するだろうから、代替可能な職業や職種はAIになっていくのは間違いない。
「もうAIがやってくれるから、もういいよ。ご苦労さんでした」
と言われるようになる。
学校の先生なんか決まったことを教えるだけだから、AIで十分。というか、きっとAIのほうがうまく教えてくれる。しかもAI教師だと教え子に手を出す変態もいない。
AIでできることはAIでやっていくほうがいいとわたしは思っている。
というか、知能労働のほとんどはすでにAIでできるのが現実。
人間だといなくても大丈夫なのにプライド高過ぎたり、過剰な責任感で鬱陶しい人がいるけれど、AIだとそれがないから楽で良さそう。
とまあ、概ね自分がいなくても大丈夫な世の中であるけれど、わたしもいなくても社会は困らない。大した仕事もしてないし。
困るのは猫たちで、うちにいる猫たちはわたしがいなくなると困る。誰も面倒を看る人がいない。
あとは6歳の愛娘も困るに違いない。学校に行けなくなるし、きっとわたしがいないとどうしようもない人間に育つだろう。
というわけで、わたしの存在はせいぜい猫と6歳児だけの価値なのである。あとは代替可能だし、今の企画がなくなっても社会は困らない。
だからプライドもないし、他人のことも気にならない。
ただ猫と愛娘は困ると思うからちゃんと生きることにしている。