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神社の神様といい関係でいる考え方

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結月です。

誰かを傷つけないような配慮が過剰である時代になったので、おみくじを引いたら大吉で、もしかしたら大吉しか入っていないんじゃないかと疑った。

先日、愛娘を連れて宇都宮の二荒山神社に遅めの初詣に行った。おみくじを引きたいというので見てみると、角柱の箱はなく、いくつかの種類のくじが平台に無造作に置かれていて、そこから好きなものを選ぶというものだった。

形式には違和感がありつつも、おみくじの料金が300円であったことにビビったわたし。おみくじは100円だと思っていたが、その記憶は自分の高校生くらいまで遡らねばならず、確かに100円のままであるわけがないとも思った。

さて、愛娘が引いたものは三角の巾着みたいなもので、その中には宝石が入っている。選んだものには水晶が入っていて、その透明さから「一から始めること」なんてことが書かれていた。今年の4月から小学生だからまあそれも良かろうと納得した。

そして、折りたたまれた紙を広げると大吉だった。

というわけで、誰かを傷つけない配慮から大凶は最初から入れられておらず、全部大吉、もしくは凶抜きのインチキなんじゃないかと思ったわけ。

しかしながら、おみくじなんて神社の商売で、あんなもんが当たるとか当たらないとか、書かれていることを気にするとかいうのも情けないメンタルだからどーでもいいのであるが、大体、おみくじを引いて今年を占うなんてことがアホらしい。

と、中学時代のわたしは行きつけだった京都の平安神宮には友達と毎年初詣に行っていて、凶だとか末吉みたいなものが出ると、大吉が出るまで何度も金を費やしたものだが、その頃から運命は自分で決める派だったのかもしれない。

そもそも自分で決めるのならおみくじなんぞ引かねばいいわけだが、その辺りが中学生はアホである。

ところで平安神宮は歴史がない神社で、言ってみればディズニーランドのシンデレラ城の神社版みたいなもので、平安京のモニュメントと言ってもいいだろうか。

とは言え、わたしは平安神宮が好きで、あの広々とした場が心地よくて、よく訪れたものだった。

さて、おみくじが大凶であったならば、今が落ちた最底辺にいるのだからあとは昇るだけ。なんて言い方もされるが、大吉だと今が絶頂だからあとは落ちるだけとも言える。

おみくじは当たるものでないけれど、人間には周期があってどん底もあれば絶頂もある。もちろん、そういう浮き沈みがあまりない人もいる。それでもずっと絶頂の人もいないし、ずっとどん底の人もいない。

結局のところプラスマイナスゼロになるのを美輪明宏さんは「正負の法則」と言っているが、つまりこれは「エネルギー保存の法則」であり、人間も物理法則に従ってちゃんと帳尻合わせができているものなのである。

働かなくて済むような立場にいるといいことばかりかというとそうでもなく、楽チンだと思っていたら自分が病気になったり、もしくは生活を保障してくれていた人が病気になっていきなり生活が危うくなるかもしれない。

もしくは金銭的には恵まれていても、愛情面はスッカラカンで人には好かれず、嫌われてばかりで幸福感がないなんてこともある。

その逆も然りで、要するにずっとハッピーという人はこの世にはいない。外から見れば良さそうに見えても、内情は面倒なことばかりかもしれない。

ただ、ずっとどん底という人はいる。

幸せは持続しないが、不幸は持続する。これは法則なのである。

不幸の場合はその人のメンタルというか、性格というか、考え方というか、そういう精神的な側面がもたらすもので、ネガティヴで何事も悪く考えるタイプは不幸が続く。

性格が陰気でマイナス思考だと病気にもなりやすし、治りにくい。

しかしながら、誰しも嫌なことはあるわけで、ネガティヴなメンタルに陥ることはある。

わたしももちろんそうなることはあるから、そんなときは神社に行って、

「パンパン!」

と、やる。

神社にそれを祓う力はないのは知っているけれど、神的な高次元の何かがあることはわかる。禍は自分で祓うしかないもので、自分で何とかしないとどうにもならない。そのためには精神がネガティヴでは駄目で、ポジティヴに持ち込まねばならないからその気持ち作りとして神社でパンパンなのである。

であるからして、わたしは神社で願掛けすることは絶対にしない。願掛け自体、ものすごくネガティヴで嫌らしい波動であるからで、やるべきは自分をポジティヴに切り替えるちょっとした儀式みたいなものである。

そうやって嫌なこと、不安なことがあってどんどんネガティヴに引き込まれそうになったらそれを断ち切るつもりで神社へ行く。

気持ちを立て直しながら、ネガティヴになる原因を処理するのである。

とは言え、氏神様というのはあるから、そこには定期的に顔を出しておくのがよろしい。

神棚はその真ん中に「神宮大麻」、その右に氏神様を置く。その左は崇敬神社である。だから氏神様は重要であって、そこを踏まえた上で崇敬神社。

わたしは栃木に来てからは奥日光の二荒山神社を崇敬神社にしていて、そのお札を入れている。それは奥日光が好きだからで、その御神体である男体山の麓にあるのが二荒山神社である。

ちなみに銀座にいるときは氏神様が赤坂日枝神社で、崇敬神社は明治神宮だった。明治神宮も広々として心地よく、ネガティブが忍び寄ってきたときはよく訪れていた。

ところで神社だからなんでもいいかというとそうではなく、手入れがされていない薄汚い神社は入らぬほうがいい。そういう神社はもはや神聖な場所ではなく、低級霊の巣窟となっているからで、見た感じが気味悪いところは避けるべし。

そして、神社の参拝はできれば午前中にすること。遅くとも午後2時まで。午後5時以降は立ち入らないのが鉄則である。

午後5時以降は逢魔時になるから、魑魅魍魎がうようよと出没し、神社のように不特定多数が好き勝手な願掛けをする場に集まってくる。

であるからして、そうした邪悪を一掃する陽光が輝く午前中がよく、最も浄化されて清潔なわけである。

その陽光も昼の12時を超えると浄化能力が弱まってくる。それゆえ、14時までが限界じゃないだろうか。しかし、逢魔時に差し掛からなければまあまあ大丈夫ではあるが、自身のネガティヴが強い場合はやはり朝でないと浄化の力が弱い。

さて、現在栃木在住のわたしは週に一度は宇都宮二荒山神社を訪れている。用事があるついでであるが、ちょっとした気分転換であろうか。

去年は公演があって、うなくいかないことばかりで日々、イラついていて不機嫌であったから、宇都宮二荒山神社に週一で行けたことで何とかメンタルを保てたように思う。神殿の前に立つことで苛つきを遮断する。それだけで随分マシにはなった。

それでいて賽銭はいつも10円程度である。

1000円入れるとそれは神社への願掛けになるから、10円にしている。小銭がなければ賽銭はなし。なぜなら気持ちの問題だから、プライスは関係ない。

1回10円で気持ちを切り替えられるのだから、神社はこのように活用するといい。

間違っても占いには行かぬこと。あんなものに金を払うなんて愚行の極みである。

占いなんかに神聖は宿らないし、そもそも占い師の顔写真を見てみろ。胡散臭い人相ばかりじゃないか。あんな人相に金を払って自分の人生の選択を委ねるなんて生き方として終わってる。

であるからして、ネガティブなときは手入れの行き届いた神社に午前中に訪れて10円玉を投げ込むべし。そして決して願掛けすることなく、自分のことは自分でちゃんとやる決意表明だけをする。付け足すならば、

「見ておいておくれやす」

と、決意表明した内容を実行する自分の姿を見ておいてもらうことだけ告げる。

10円程度でいいから、見ておいておくれやすとやっておくと、後腐れもなく神様といい関係が築けるのである。

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