結月です。
週刊連載の漫画家の誰かがインタビューで、漫画がどうなるか自分もわからないからおもしろい、みたいなことを言っていて、つまり次週をどうするかは考えずにとりあえず描いちゃう。そしてその描いた終わりから「さて、どうしようか」と次の話を考え、連載を紡いでいく。
これが次の展開が思いつかないまま締め切りが来てしまうと漫画太郎の漫画みたいに展開ないままの状態になるわけだが、漫画太郎はストーリーテラーでなく、画力とえげつなさで勝負であるからそれでもおもしろい。
物事というのはある程度の長期視野も必要であるけれど、完璧主義で作り込みすぎるとうまくいかなくなる。
なぜなら、何事も予定通りにはいかないのだから、自分の描いた通りに事が進むなんてことはない。
であるからして、コンセプトだけはきっちりとしておいて、とりあえずやってみてその都度更新しながら進んでいくのがいい。
ちゃんとできるまで物事を始められないと考えるのは日本人的な特徴のひとつであって、「ちゃんとしなきゃ」という意識が進歩を妨げてしまう。
黎明期がおもしろいのは「ちゃんとしなきゃ」と考えずに、デタラメでもいいから何でもやっちまう空気が社会に漲っているからで、デタラメなものも大量生産されると同時に、とんでもない発明も生まれる。そして社会に推進力が出て、要は元気になる。
例えば、中国の2000年前後はまさにそんな状態で、コンプライアンスなんて概念はないし、いい加減満載で、でも何でもやってオッケーな自由な空気があり、デタラメなのに元気さがあって、その結果、今の世界企業が中国から生まれた。
一方、日本は成熟社会は随分昔からで、何かとうるさく、細かいことにもうるさく、コンプライアンスだとか、人の気持ちだとか、面倒なことばかり気にするようになって社会から元気さはなくなり、神経過敏で窮屈な状態。そこからは進歩的なものは生まれにくく、世界を牽引するようなものは出てこない。
会社も創業時が最も楽しくて、何でもやってやろうという意気込みがあってエネルギッシュ。
ともかく、元気なものというのはとにかくやってみようと考える状態で、やってみて駄目ならそこからどうするか考える。そんな無責任さがむしろおもしろさを生み出すのである。それはまさしく漫画連載で先のことを考えずとりあえず「こんなことをやって」みて、その後の展開は後から考えるのと同じである。
先に決めてしまうと予定調和になる。予定調和なものはエネルギーがなく、おもしろくない。無難に済ませようと思うと予定調和を選ぶとも言える。
ITのプログラムの世界が進歩的なのは、とりあえずアプリをリリースしてみて、利用者からバグのクレームが出てから改善を図っていく。
プログラムなんて最初から完璧なものができないし、完璧だと思ってもリリースしたみたらバグがあったというのが普通だから、最初から100点満点は考えず、おそらくは90点くらいを目指して残りは後から修正する。
だからプログラマー出身の人たちはプログラム以外のことにも間違いが出ることはとりわけ恐れないし、常に合理的に考えてミスを修正するクールさがある。
そう考えると、政治なんかはプログラマー的な人がやったほうがきっとうまくいく。
例えばコロナを5類にするかどうかをずっと検討し続けているが、こういう事例もプログラマー的な政治家であればとりあえず5類にやってみて、その結果がよろしくなければすぐに戻したり、修正したりして、検討という無駄を省くだろう。
慎重に慎重を重ねた結果がいいとも言えないのはこれまでのコロナ政策を見ればわかるし、結局のところ「やってみなけりゃ、わからない」がこの世の常であって、要するにやってみる勇気があるかどうかなのである。
プログラマー的だと勇気みたいな情念は使わず、ただ冷淡にサッとやってしまう。
すべてに情念を廃するのも問題で、人間はPCのようになれないけれど、ちょっと日本は余計な情念が多すぎるし、情念でもって完璧を求めようとするから面倒ばかりになる。
ところで「やってみなけりゃわからないからやってみる」は運気アップにもよろしい。これは極めて合理的に考えてもそうなのである。
誰かに何かをお願いしたいとき、しかしちょっと躊躇したり、断れるのでないかと臆病になったり、どうせ駄目だと思い込んだりしてしまうと何事も始まらない。
これは恋愛の告白と同じで、その人のことが好きなら、
「好きです」
と言ってみる。付き合いが始まるかはその言葉を言わないと始まらない。
告白してみて断られたら諦めればいいし、やってみた結果はやってみる前とはプラスマイナスゼロなわけで何も失っちゃいない。だったら好きですと言ってみるほうがいい。もしかすると相手がそれを受け入れてくれるかもしれないわけで、それも告白してみないことには得られない結果なのである。
だから、やってみることを数多くこなすと成功の数も増えるから運気がアップする。正確に言えば、運気がアップするというより、進歩する。
ただし、闇雲だけはいけなくて、「やってみる」ことにはしっかりとした理由はなければならない。この根幹がないとチャランポランでしかなく、あちこちに借金の申し出をしまくるようなのはその典型であろう。
そして、更なる運気アップは、
「わからなかったら、訊け」
である。
自分ではわからないのに悶々としていては次のステップにいけない。わからないことは処理しなければならぬ。だから訊くこと。訊くことに恥じると前進できない。
その習慣を身につけるのはソクラテスの問答を知るのがよく、プラトンの著作を読むといい。ソクラテスは自分がわからないから教えてくれという「無知の知」でソフィストたちに質問を重ねる。そうしているうちに何が誤謬であるかが浮き彫りになってくる。
勘違いしてはいけないのはこれはアドバイスを求めることとは違う点。他人のアドバイスなんていい加減なもので、その人のポジショントークである確率は高いし、嫉妬があればわざと不利な助言をされることもある。さらにアドバイスする人がしょーもない人であることも多い。
その最悪な事例は何と言っても占いであり、占いに頼るようになるとダメ人間になる。
判断するのはあくまで自分であるべきであるのは、人間は自分の生き方は自分で決めないと生き様が空虚になるから。
とにかく「やってみる」こと。ただ、やらなくていいようなどーでもいいことはやらないこと。
実はこの世はやらなくていいようなどーでもいいことに溢れている。それを選別できる目を持てるように生きる。失敗を繰り返さないとその目は養われないけれど、それもやってみなければ得られるものじゃない。
と、思い出したのは次のことを考えない漫画連載の作者は『北斗の拳』の原作者だった。主人公のケンシロウが旅をしていることにしたが、なぜ旅をしているかは考えていなかった。そこで恋人を探す旅という後付けをして物語を進めていったらしい。
そんな蓄積が「意義」になったりするもので、物事を開始するときには「意義」なんてないものなのである。しかし、いろいろやってみて自ずと自分の足跡がストーリーとなってそれが意義となって「こういうことです」なんてあたかも初めから決めていたかのようにカッコよく話せるわけで、ストーリーとは最初から作り込むのではなく、後から出来上がってくるもの。
だから、
「わからなかったら、とりあえずやってみる」
のがよろしい。