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何を得たかより何を遺せたか

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結月でございます。

「私はミニマリストです」っていう人はミニマリストに違いないのであるけれど、どうもね、わたしはそういうのも違うなって思うんですよ。

わたしもどんどんミニマル化していて、余計なものが身の回りからなくなっていくというか、必要最低限のものだけが心地よくて、引越しのたびにモノを処分して身軽にしている。

逆に豊饒だったのは、銀座の5丁目から3丁目に移転した頃で、美術的な資料や音楽関連のものやら、いやいやそれだけでなくいろんな方面でいい品物を集めたりしてモノも多かった。

当時はアール・ヌーヴォーが好きだったので、美的にデコラティヴであればあるほどよかったわけだけれど、次第にそれが鬱陶しくなってきて、アール・デコな気分になり、それも煩わしくなり、最終的にはあまり興味がないというところまできた。

それはきっと十分と言えるほど取り入れたからで、咀嚼され、消化され、姿形がなくなって、エキスとして吸収されちまったからなのだと思う。

そういうわけで必要と思えるものが少なくなってきた。しかし、これはミニマリストとは異なる。

「私はミニマリストです」という人はそうすることに喜びを覚えているに違いなく、言ってみれば1リットルのガソリンで遠くまで走れるクルマを開発するようなものではないか。もしくはアスリートが体脂肪率を限界まで下げるような。

ところがわたしのミニマル化はそういうものでなく、もともとデコラティヴで豊饒であったものが少しずつ溶解するかのようになくなっていって、自然に何もなくなるような感じで、そこには快感を求めるということもない。

意図して削るのではなく、意図しないで、自然になくなっていくという具合。

だから、断捨離とも違っていて、最後に残るのは本質だけなんだと遠くを眺めている。

しかし、その本質はなくすこと、減らすことを目的にしてしまうと得られないもので、自然の浸食に近いものなのかもしれない。

本音を言ってしまえば、猫がいてくれるだけで事足りる。

しかしまあ、物質界では猫と暮らすにもキャットフードを買う金を稼がなければならなかったりするわけで、そうなると猫だけというわけにはいかない。

でも、自分には猫だけいてくれればいいと思う。

人間は何かを得たいと思うもので、それは金であったり、家であったり、名誉であったり、異性であったり、幸福であったり、する。

しかし、得てみると、しばらくして、

「これは要らなかったな…」

なんて思ったり、

「もう用済みだから要らないね、もう」

なんて言っちゃったりする。

だから、得たいと思って得たものはあまり人を満足させないものらしく、要するに飽きるのである。

そんなことよりも、自分が何を遺せたか?というほうが大事、というか、意義がある、というか、おもろいんじゃね?と思う。

自分が生きていて、この世に対して何を遺せるか、遺せたか。

得るのでもなく、無理やり削るのでもなく、遺せるもののために生きて、そのために金を使って、最後に死んじゃう。

それは興味の対象が自分でなくなっているわけで、だからこそ、ミニマリストとも断捨離とも違っていて、当然、ボランティアでもない。

社会、もしくは他人に何か遺せたらいいよね。遺せるものが多ければいいよね。

栃木に来てからずっと3歳の愛娘と過ごしているけれど、それはそれで楽しいのは一緒に映画を観たり、音楽を聴いたりしている時間も「遺している」ことだから。

それは経験として彼女に遺していて、わたしがいなければそのカルチャーは供給されないのだから、形として見えなくても遺るものだろう。

これまで着付けをたくさんの人に教えてきて、それもその人に着付けというものを遺せたかなと思う。

でも、大半は教えた着付けも忘れてしまって、どうせ一人で着れやしないという人が大半だろうけれど。

だから、ほんの少しだけ着付けは遺せたか。

コンサートを大なり小なりやってきて、それは音楽的な感動を来てくれた人たちのハートの中に遺せた。

と思い返せば、まあまあ遺せてる、アタシ。って思うわけで、私腹を肥やすより、他人に何か遺せるほうがすごく楽しい。満足できる。有意義である。

しかし、遺すと言っても、最低最悪なものを遺してしまうことだってある。

やらかしちまったことは誰しもあるだろうし、犯罪はその最たるもので人を殺せばその遺族に悲しみを遺す。

だから、遺すのであれば、心地のいいものを遺す、ためになるものを遺す、とまあ、そんなところがいいらしい。

ところが何かを遺すには中身が空っぽでは成就できない。

すなわち、いきなりミニマリストではいかんのだよ。

あれもこれもと欲望を暴走させて、有効なものも無駄なものも愚かなまでに吸収してみて、ようやく取捨選択というやつができる。

そして、何が要らないものかの判断ができるようになってきて、何が必要かもわかってくる。

さらに必要なものも形を失うほどに消化できたら、猫だけいてくれればよくなるんだよね。

でも、猫との生活だと何も遺せない。

自分のことは猫だけでよく、生きてる間は自分以外の誰かに、社会に何かを遺すようにするのがいいようだ。

自分の行為、行動が他者向きであること。

物質でなく、想念に遺るものをやること。

それができていれば、満足して死ねるんだなと確信している。

死ぬ間際の後悔は辛い。

満足して死ねることが、満足して生きること。

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