結月でございます。
読売新聞オンラインで気持ち悪い記事を見つけてしまった。
そもそも着物警察なんて言葉が下品だし、着付けが下手な人の劣等感がにじみ出ていやらしい。
着物警察に関しては、わたしは以前、こんな記事を書きました。
着物警察なんていませんよ。それは週刊誌が大げさに作り上げただけです。着付けにうるさい人はいても、見ず知らずの人にいきなり声をかけて着付けを指導するなんて人、普通いません。
それは着付けを始めたも下手くそで、着物ってちゃんと着ないとみっともないと恐れていて、怯えている人の妄想です。人の何か言われたらどうしようって。
見ず知らずなのに何か言ってくる人は確かにゼロではないかもしれないけれど、それは東京の地下鉄で足を組んでいる人に指摘する人の数よりももっと、もっと、もっと少ないです。
なぜなら、着物を着る人がほとんどいないからで、着物そのものの人口が少ないのになんで着物警察なんかいますか?
着物警察を話題になるほど、着物なんてみんな着てないでしょ?
まるでネッシーみたいなものですよ。いると思って、目撃談とか、ちょっとしたことを気にして文句言われたとか思ってる妄想みたいなもの。
本当に着物警察がうじゃうじゃいるくらい、着物を着る人が多くなればいいと思うよ。
さて、この読売新聞の記事はとても気持ち悪くて、これも新聞社の捏造です。
もはや新聞社の記事というレベルではなく、感想文というか、高校生の作文みたい。
文章の書き方を見れば、記事としてこういうのを作っておこうと新聞社のライターか誰かが書いただけなのが一目瞭然。着物を着ている人の文章でないです。もはや高校生の「体の不自由なおじいさんが電車にいたから助けました」みたいないい人を気取った作文。
でも、読売新聞がどうしてこんな記事を載せる必要があったのかよくわからない。新聞にするほどのネタじゃないしね。
この記事のおかしなところは「ご婦人が襟を直してくれた」というところ。襟なんて崩れたり、もしくは最初から下手でぷかぷか浮いているものはそう簡単に直りませんよ。だって下前には手が入らないんだから。
それに見ず知らずの人の襟といったらデリケートなところで、そんな首元に手を出してくる人はいないでしょう。よほど親密な仲でないと。お太鼓のたれ先がトイレに行った後、跳ね上がっているのを直してくれたっていうのならあるだろうけれど。
そして着物を美しく着こなす年配の女性とあって、これもおかしい。今は団塊世代が70代に差し掛かっていて、つまり団塊世代は着物なんか自分で着れない世代なんです。今はね、年配だからと言って着物が着られる時代じゃない。それはせいぜい30年前くらいまでの話。
年配が着物を着られるっていう認識自体が古いんですよね。
さらに腹が立つのは、日本の文化を広く知ってもらうためにも着物で街を歩きたいという記述。
なんで外国人に見せるために着物を着なくちゃいけないの? あんた、温泉街のコンパニオン?
着物っていうのはすでに日本の文化からはなくなっているんです。着物なんて滅多に着ないんだから。外国人に日本文化として見せたいって言っている時点で、それはもう日本文化としてはないものだということ。
だって、もっと文化として馴染んでいるものならわざわざ外国人に見せようと思わないでしょう? 例えば、お箸を使うところをオリンピックで見せようなんて思うかな?
文化っていうのは、それを意識せずにやっていることをいうんです。意識してやるならもう文化じゃない。だから着物はコスプレなの、今は。
だから、京都に行ってわざわざレンタル着物着るっていうのは文化じゃないの。それゆえにああいった着物は品質もデザインも日本の伝統的なものでないわけで。
そういう状態だから、わたしは単に着物が美しいから着物の仕事をしている。日本文化がどうとか、外国人に見せようとか考えたことないですよ。アホらしい。
そしてこの記事の最後の文。
「着物の先輩方、どうか初心者の私にいろいろご助言ください」
って、気持ち悪すぎ。お前、ドM?
まあ、こういう文章だからライターが書いたんだと思うけどね。もしくはどこぞの悪徳着付け教室が記事依頼したステマ?
というわけで、こういう胡散臭い記事には皆さん、騙されないように。
着物なんてね、
「着たいから着る」
それでいいんです。
その気持ちが根源にあって、少しずつ洗練されていけば美しくなるんだから。
ただしね、この記事にある「習うより慣れろ」は嘘かな。
回数着ることは大事だけれど、どこが悪いのか自分で把握せずに闇雲に回数だけ着たってきれいになるわけないじゃん。
そんなことくらいわかっとけってね。
無駄な回数重ねるより、金払ってちゃんとしたところでパリッと習ったほうが早いよ。
ところが今は着付け教室の多くが悪徳だから困っちゃうんだけどね。