結月でございます。
畳の上に寝転がって本を読んでいると、猫が腕枕して眠ってしまった。わたしと同じように並んで寝ていて、両脚を伸ばし、お腹を出して人間そっくりなのである。
うちには猫が3匹いるけれど、このような姿で寝るのは1匹だけで、猫によって寝方はそれぞれ違う。
しかし、猫が隣で同じような姿で寝ていると嬉しくなるもので、それは連帯感というか、信頼関係というか、本来なら警戒心が強い動物としての猫がそうやるのだから、これはただならぬ関係なのである。
猫が腕を枕にしているから、動くと起きる。もう片手で本を持ちつつ、猫の枕になった腕は動かさないようにする。
それは猫が起きたら可哀想だという理由だけでなく、猫が目覚めてしまってこの心地よい状態でなくなるのが嫌だからである。
とはいえ、猫に気を使っているのだから、これは受け身の時間なのだと思った。猫が腕で眠っている間はわたしにはそれほどの自由がない。
しかしながら、猫のトボけた寝顔を見ているとこちらも眠くなってくる。猫の催眠作用はすさまじい。
猫が隣で寝ている時間も自分の人生の中では貴重な時間なのだと思いながら、猫の顔を眺める。
いずれこの猫の寿命が尽きてしまって、わたしのそばから猫がいなくなってしまう時が来る。そうなればもうわたしは猫を飼うつもりはないのだけれど、だからこそこんな猫と一緒に寝ている幸せな時間を大事にしたいと思う。
そして、自分も死ぬ時が来て、猫とこうして寝ていた時間を思い出す。
その日のために猫との時間を大事にする。
さて、受け身の時間の対称は能動の時間で、それは自分の意思で何かをやっているとき。
勉強している時間もそうだし、やりたい仕事に取り組んでいるときもそうだろう。自分中心となって時間が進んでいる。
猫的な時間は心地がいいけれど、何かを生み出すわけでない。じゃ、それがないほうがいいかとなると、そうでもなく、そういう時間がないと人間は疲れ切ってしまう。
でも、猫的な時間ばかりだと心地よいだけで何も成果を残すこともなく、自分を見失ってしまう。
だから両方が必要というわけで、そのバランスが取れていることが健康と言えるのではないか。
そんなことを思いながら、猫はわたしから離れて、カーペットの上で寝ている。