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熊谷守一のすごさがわかったのは自分がレベルアップしたから

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結月でございます。

ネットで画家の熊谷守一を主人公にした映画があったことを知る。山崎努と樹木希林が主演だったらしい。

そこに熊谷守一の猫の絵があったのだけれど、

「これはまさしく猫だよ!」

と、仁王立ちして絶叫したくなった。

いやいや、熊谷守一の絵は初めてじゃないし、子供の頃にも見ている。

未成年まで京都にいたわたしは絵が好きな父に連れられて、毎週のように京都の美術館や版画を専門に売るギャラリー・ココという画廊に通っていた。ココでは絵を眺めるだけでなく、画商が絵の話をするのを聞いたり、アバンギャルドの画家が来てわけもわからずテーブルを一緒にしていたりした。

版画は何枚も刷るから油絵に比べて値段が安いということもあり、数ヶ月に一度は父は絵を買っていた。実家へ行くと、それらがまだ飾ってある。

ともかく、そのせいで小さい時分から家には図録や美術本があり、中学に入るまではそれらをよく眺めていた。それらの本は引き継いで栃木まで付いて回っているのだけれど。

さて、熊谷守一を特集したアサヒグラフがあって、それを子供の時に眺めては、

「つまんない退屈な絵だなぁ」

と、ほぼスルーしていたのだけれど、今回、ネットで久しぶりに猫の絵などなどを見て、書棚からずっと見ていなかったアサヒグラフを取り出してみた。

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1978年のアサヒグラフの別冊。改めて熊谷守一の絵を見てみて、

「これ、マジ、スゲーじゃん!」

と、子供の頃の印象を全否定した。

有名な猫の絵。

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これは猫だよ。まさしく猫だよ。猫ってこんなだよ。

と、当たり前のことを言っているけれど、つまりこれは猫そのものが描かれているんだな。

これはね、猫のエーテル体を捉えているんだよ。エーテル体を線にしてるんだよ。これはね、並みの画家じゃできないよ。

エーテル体がなんであるかは面倒だから説明しない。何年か前に結月の心霊講座を受けてくれた人ならわかると思う。アストラル体も含めて説明したから。

ともかく、エーテル体を捉えているから、これはまさしく猫の絵なんだよ。

どんな画家でも年を取ると抽象画になってくる。若いときは緻密に描きこんでいくけれど、どんどん本質だけになってくると具体ではなくなってくる。だから抽象になる。

ピカソもそうで、若い時に青の時代を描いていた画家が、晩年にはああなるのはそのため。

だからね、今のコンテンポラリー作家など、いきなり抽象画を描いているのはことごとく駄目なの。対象物を描き切っていないうちにイメージだけで抽象をやるから力がない。

熊谷守一の猫は抽象作品ではないけれど、猫が猫であることをシンプルに描き切っているよ。ちなみにこれはうちの猫、マオミィ。

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熊谷守一の絵のすごさがわかるようになったのは、猫のマオミィが生活の中にいるからだろう。猫というものをリアルに毎日感じている。

もし、熊谷守一がワニを描いてもワニは動物園でしか見たことがないからよくわからない。

と、そんな馬鹿なことはいいとして、猫だけでなく熊谷守一の絵がわかるようになったのは、本質だけを捉えることがわかってきたからだろう。

実は今のわたしは無い無い尽くしで、興味ない、関心ない、ないないない。

でもそれは若い時代の画家が緻密に描き込んでいたようなことに興味がなく、本質を捉えて、シンプルにそこに近づこうとしていることと同じだと思う。

絵だって、昔はアール・ヌーヴォーのようなデコラティブなものが好きだったけれど、今はシンプルに線一本で描けるものがいい。

使う言葉や生き方なども本当に必要なものだけでシンプルに迫りたい。

そんな意味でもミニマリスト化しているわけで、自分がそういう境地になって初めて熊谷守一の絵が身にしみてわかるようになったんだなってね。

情報はたくさんあったほうがいいっていうのはまだ鈍感なのだろう。つまり、若いということは鈍感だから情報過多になる。

スーパーなんかに行ってレジに並ぶと、ポイントカードありかすかと訊かれ、ないと答え、今度はレジ袋はお付けしますかと訊かれ、いらないと答える。そしてお刺身のパックをビニール袋に入れられるので、そんなことはいいから早くしてくれと言う。さらにセルフレジで会計ボタンを押し、支払いはクレジットカードか現金を選び、パネルにタッチしカードを入れる。そしたらレシートが出てきてそれを引きちぎる。

こういうのってさ、物を買いに来た本質と関係ないことばかりなんだよね。それなのにいろんな情報を過剰に提供することがサービスだと思われてる。そんな手間がすごく馬鹿らしくて、嫌になっている自分がいる。

メールをもらうと、毎度「お世話になっております」と書かれ、言われなくてもわかってるよと思わなければならない。

ラインをすれば、内容とは関係ない顔文字が過剰にデコレートされていたりして、結局何が言いたいのかわからないと鬱陶しい。

そうだ、今は兎角、鬱陶しい時代なんだ。

でも、その鬱陶しいほどの過剰な情報提供をやったほうがいいと思われているから、今の時代は幼いのだと思う。これだけ言ってあげないと相手がわからないというのは親切なのではなく、頭が悪いからなのだろう。鈍感だからわからないようになっている。

わたしが子供の頃、熊谷守一の絵を見て退屈だと思ったのは、情報が極限まで削ぎ落とされていた絵から本質を得る力がなかったから。子供はいろいろと世話して、用意して、揃えてあげないと理解しない。

でも今は何が削ぎ落とされて、本質は何か、さらにその背後にあるものがその線で読めるようになった。そうなると熊谷守一の絵がとんでもなくすごいことがわかるようになった。

これは年を重ねること、いろんな経験をすることによって今よりも若かったときよりもずっと敏感になった証でもある。

少ない情報だけでより多くのものを得られる敏感さ。

そう考えると、人間は若年から離れていくにつれて、処理能力が高まるのかもしれない。

いや、そうでなく、ただ鈍感で、頑固で、融通が利かなくなる人が大半かもしれない。

さて、着物のことをちょっとだけ話すと、今の振袖嬢の髪型はひどいのは盛りに盛ってデコレートしすぎなところ。ああいう髪型にしかできない美容師はエーテル体どころか、物事の本質なんてわかっちゃいないと言える。

着物に最も美しいのは、シンプルな夜会巻き。

着物を着るならエーテル体を感じさせるような美しい夜会巻きにしてほしいよ。

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