結月でございます。
うちには三匹の猫がいて、マオミィという雌猫がいる。わたしのところに最も早くに来た猫で、つまり一番付き合いが長い。キジトラ。
そんなマオミィは東京にいる頃からずっとひとつの性癖があって、それはわたしが食事を始めるとウンコをするというもの。
どうしてなのかはわからぬが、食事しているのを見ると催してくるみたいで、ネコ砂をシャカシャカとやり出す。うちはいいプレミアムキャットフードを与えているので、そんなに臭いはないもののとにかくウンコを始める。
そして、昨年末から2歳の愛娘と過ごすようになり、いつも一緒に食事をするが、なぜだか猫の性癖を踏襲して、わたしはご飯を食べながら2歳児のパンツを変えなければならないのである。
ともかく相手が猫や2歳児なので仕方がないし、可愛いしで別にどうってことないのだけれど、そういうことがある。
さて、思うに今の時代のキーワードは「あざとい」であって、それはもう10年くらい前からで、それはますます進行しているように思う。
テレビドラマやテレビCMを見ても、役者の演技があざとすぎる。
登場人物の気持ちやストーリーの流れを大げさな演技で表現したり、わかりやすすぎる顔をしたりする。
これは漫画の手法であり、漫画は「大げさ」に描くものであるから、漫画で育った人が役者になったり、演出者になったりしているのだろう。とにかく、漫画で見るような表情を映像でやっているのである。
今の芸能界には詳しくないけれど、わたしの知る限りその典型の女優は綾瀬はるかで、彼女は芝居という根本を履き違えていて、わかりやすく大げさが演技だと思っているのかもしれない。
そして、書かれた脚本の意味は「こういうことでしょ?」みたいなことを顔芸でやるのでなんともあざといなって思う。
演技とは見ている人に伝えるものであり、脚本の読み込みを内輪で自慢するものではない。だからこれは演技になっていないと言える。
あとはどこの何がいいのかさっぱりわからないのが吉岡里帆。演技以前の下手くそで、あざとすぎて見ていられない。あれなら単にド下手なほうがいい。
今はネットがあるので、個人がメディアになることができ、そしてそれを収入源にすることができる。そのためアクセスアップのためのノウハウなど、あざとさが目立つようになってきて、そういうセオリーが特段珍しいものでなくなってきた。
そのため、見ているほうも「それくらいのことは知ってるよ」という情報の共有ができてしまって、提供者側も受信側もほどほどに小利口になって、驚きがなくなっている。
「サプライズ」なんて言葉を使うようになって随分経つけれど、サプライズを期待するのはそれだけみんなが小利口になってそこそこのことなら知っているから感動がないから、それを超えるものを期待するようになったというわけ。
とはいえ、そんな誰もが見たことがないようなサプライズなど簡単に思いつくことはできず、結局は無理な大食いを動画にしたり、渋谷の横断歩道にベッドを持ち込んで寝てみたりといったことしかできなくなる。
要はみんなが「狙って」いるからで、しかし狙い方はどれも同じ。それは大半の人は凡人であるからに他ならず、非凡な人が何かを発明したらそれをすぐに真似るだけなのでやっぱりあざとい風潮になる。
SNSの影響もあるかもしれない。あざといことをしないと承認を得られないから、自撮りをはじめ、魂胆があるものが跋扈している。
みんな狙いすぎなんじゃないか。そんなあざとさにみんなが同調していて、狙えば狙うほどおもしろくなくなっている。
本心の主張を伝えることよりも、伝える技術のほうが先立ってしまって中身がない。中身がないものは感動しないから、その技術を理解して、そこにあざとい理解を示して、
「わかる、わかる」
なんて言って盛り上がるしかない。
そんな予定調和なものなんかより、食事を始めるとなぜかウンコを始める猫や幼児のほうがずっとおもしろい。
そのウンコは一見、予定的な出来事に見えて、それがなぜなのか?というところが謎であり予定調和でない。あざとい悪意がなく、ちょっとした感動がそこに生まれる。
ところで綾瀬はるかみたいに目玉を出しながら顔を近づけて大げさに迫ってくるような女が本当にいたら、鬱陶しくてやりきれないだろう。
しかし、それは視聴者がそこまでやってあげないと理解できないほど映像表現の理解力がなくなっているせいかもしれない。
ところでわたしがいいなと思う女優は沢尻エリカ。
蒼井優は上手すぎて、上手すぎることがあざとさに見えるときがあり、それは大竹しのぶと同様。上手すぎて、その結果、わかりやすいのはすべてを容易に伝えてしまうのでつまらなくなってしまう。
やはり、どこか謎がないと魅力にはならない。そんな謎がある猫と2歳児のことが好きなのである。