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『魔女の宅急便』はいい映画だった。

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結月でございます。

今日は図書館で借りたDVDで『魔女の宅急便』を4歳児と見ていた。4歳児は気に入ったようで、静かにじっと見ていた。やはり女の子なんだと思った。

わたしがこの映画を見るのは久しぶりで、きっと10年以上は経つだろうか。

今日改めて見て、いい映画だと思った。

ネットのないアナログの時代らしく、テンポも慌しくないし、映画としてサイレントな魅力が十分にあった。

映画とはもともとサイレントであり、台詞で説明するものじゃない。あくまで絵で見せるもの。

そして『魔女の宅急便』は音を使わない静寂をとても上手に使っていて、映画らしいなと感じた。

そんなことは当たり前だけれど、今更それを思うのは今の映画がサイレントな要素がなさすぎるから逆に新鮮だったからだろう。

大ヒットした『鬼滅の刃』はそういったサイレントな要素がまったくないセセ台詞劇で、いや、台詞劇以上にビジネス本さながらに説明的な映画だった。それが悪いとは言わないが、今がそういう説明的な時代なのである。

そんな魔女宅を見る前、TBSかどこかのBSで向田邦子の特集をやっていたので見ていた。知的な美人で、かつユーモアがあるというとてつもないいい女であるわけだけれど、番組では女優や作家が向田邦子を語っていた。

しかし、どれも話す内容が薄っぺらで、ありがちで、思わすぶりで、リスペクトのアゲアゲで、ちょっとため息が出た。

でも、これも時代だと思った。総じてみんなコメントがうまい。当たり障りなく、それでいて熱っぽく見せるのが上手で、言ってみればそういうフォーマットができてしまっている。

まるでインタビューを受けた小学生がそれらしいことを言うようなものである。

的を射ていて、はみ出すところがない。ちゃんとまとまった語り。

とにかく、みんな説明がうまいのだ。そういう時代、自己啓発本的、ビジネス本的、さらにグーグル的。

個性というものがない。それらしすぎる。

そういう意味では昭和時代のアナログな、説明的でない勝手気ままさみたいなものがおもしろくも思える。

今はみんなグーグル検索で小利口であって、物事を知識的にはよく知っているように見える。でも芯がないというか、存在感が薄い。

とまあ、説明的上手さのコメントばかりの向田邦子の番組を見た直後だったせいもあり、魔女宅はむしろリズム感がアナログでおもしろさが際立って感じられた。

説明的なことは簡単なのである。アホでもできるのである。覚えればできる。

向田邦子の魅力は説明的でないところであるのに、番組で向田邦子を語る人たちが説明的である。

世の中というのは説明した方がいいものと説明しない方がいいものがある。

しかし、説明しないで相手に感じさせるには技量がいる。好きだから好きと言わず好きだと感じさせる。それは説明よりもズシリと重く響く。

そういえば、小室圭さんが会見で、

「私は眞子さんを愛しています」

と言った。

あれは説明的な言葉。だから説得力がない。情を表現する言葉であるのに情がないから響かない。白々しく聞こえる。

あれは「愛している」なんて説明的な言葉を使わず、

「眞子さんのためなら死んでもいい」

と言ったほうがよかった。

「死んでもいい」なんて説明できやしない。でも、本当の情からは説明できない言葉が出てくるもので、だからこそ心に響く。

「愛している」なんていう奴が本当に愛しているわけがない。しかもそれを会見の台本を予め考えて言っている。「愛している」はもっと言いづらくて、不器用で、嗚咽するように発するものだ。台本で発するものじゃない。

ところで「愛している」のもっとも原始的な表現は「愛している」という言葉でなく、たまらず抱きつくである。

言葉なんかないほうがいい。いや、言葉は必要である。余計な言葉はないほうがいい。

いい映画がサイレントな要素がたくさんであるように、サイレントに伝えるもの、台詞で言われないもの、言葉の周囲に漂う匂いみたいなもの、そういうもので感じさせる。

わたしが猫といる時間がもっとも幸福なのは、猫との時間に言葉がないからである。猫は言葉を使わないがゆえに猫を溺愛する。猫は何も語らず腹の上に寝ている。それだけでいい。

ところでYouTubeというメディアは大変説明的なものである。

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