結月です。
昨日から栃木。明日には東京。
こちらに着くと、ほうれん草と鶏肉炒めの中国風があってそれを食べてみると、
「おほぉ!これ、ほうれん草の味がしておいしいよ!」
と、ほうれん草を食べてほうれん草の味がするなんて当たり前のように思えるけれど、昨今のほうれん草って全然ほうれん草の味がしないよね。
子供の頃に食べたほうれん草ってモロにほうれん草の味がして、だから子供が苦手だったりした。ところが今、スーパーで売られているほうれん草ってほとんど味がしない。
ともかく、昨日はほうれん草が文字通り「草」だと思うほどちゃんと草の味と香りがして、それは道の駅で買ったものだという。近所の農家が泥付きで持ってきているものでほうれん草の他にも人参や白菜もあり、なるほどガチで気合いが入った姿をしていて、田舎の朴訥さが野菜に漂っている。
随分前、銀座時代の結美堂と同じビルの地下にあったバーの女バーテンダーが農学部出身で聞いた話がある。今のほうれん草や小松菜は種を蒔いたら気持ち悪いくらいすぐに大きくなるという。
バイオテクノロジーの力だろうけど、出荷できるようになるまでの時間が驚異的に短くて済むからスーパーで1束98円で出せるのだろう。
しかし、そんなに早く生育すればほうれん草の旨味が育つわけがなく、だから昨今のほうれん草は味がない。
しかし、昨日食べた栃木の朴訥すぎるほうれん草はそんなバイオでなく、普通にじっくりと育って大きくなったものだから、リアルな味がしたのだろう。
便利になって安くはなっても今は本来のものが貴重となり、話題になり、美食になる。
そもそも普通に育ったほうれん草を食べて、
「うまい!」
なんて言ってる時点でアウトなんだよね。本来の地物を食べて、その食材を選ぶべきとか、それを美食と言っていることが情けない。
昔はそれが普通だったから、
「ほうれん草ってこんなもんだけど…」
で、美食にもならない。
そう言えばトマトもそうだね。今のトマトって見た目がきれいで安くなった。そういうトマトを開発したのだろう。でもトマトの味がしない。
トマトってもっと青臭いもので、トマトは野菜であると感じさせるものなはず。
とまあ、そんなわけで東京での美食とはアイデア勝負ばかりなんだなって。どんな素材をどんな風に料理すればいいかというアイデア合戦。そして、そのための材料を市場に行って買い付ける。
しかし、栃木のほうれん草の場合は、もともとあるものをそのまま食べたら普通においしいというもので美食というジャンルにはならないだろうけど、やっぱりおいしい。しかも安い。
東京の飲食店の料理は今時の美容院がする振袖のヘアスタイルみたいなものかな。コテコテで盛り盛りで過剰にすれば仕事だと思ってる。
シンプルな夜会巻きをきれいにできる美容院が本当にないように、シンプルでおいしいものは東京にはない。
栃木のほうれん草はきれいに仕上げた夜会巻きとは程遠いくらい田舎臭くて、泥だらけで、不格好であるけど、そのコンセプトとしてはシンプルな夜会巻きかもしれない。
さて、朝が来るとシャンシャンが保育園に行く準備をする。