結月です。
今までのことを振り返って、自分には後悔したことってほとんどないなぁって思うんですよ。
苦労と心配は数知れず、たくさんの修羅場はあったけれど、後悔はないです。
人間が死ぬ最期の終末医療の現場の話で、何が人間を死ぬ間際に苦しめるかというとそれは「後悔」らしいですが、それはそうだろうなって思います。だって、もう先がないのだから。
「あのとき、あれをやっておけばよかった」
という後悔は、人間を苦しめるものです。
なぜなら、あのときの体力があればこそできたのに、あのときの財力があればこそだったり、つまりやれるチャンスはそのコンディションも影響しているわけで、今ならやる気はあっても年を取り過ぎていたりしていては、もうどうにもなりません。
だから、
「やりたいと思ったときには、言い訳しないでやれ!」
という実践しかないんです。
キモノだって、ある程度若いうちに着たほうがいいんです。婆様になってから着たって、なんの思い出にもならないし、きれいじゃないしね。
わたしは着物を着たい!ってある日突然思って、そして結美堂にしたんですが、トランスジェンダー着付け師として、高いハードルを超えて本当にやっちゃったから着物に関しては後悔はないんですよね。
準備をしている頃は正直、怖くて着物で街を歩いたら石でも投げられるんじゃないかなんて思ったけれど、現実はそんなことなく、お客さんや生徒さんもたくさん来てくれています。
先日は奥日光の男体山の登頂に成功して、今年初めにこれまたいきなり思った男体山へ登ることもクソすぎる体力をなんとかして年内に達成できました。
山に関してはこれで終わりではなく、むしろ始まりで、これからさらなる挑戦をするでしょうが、男体山の頂には行けることができてよかった。もし、これをやらなかったら死ぬときにすごく後悔してると思う。
大きなコンサートも何度か開催したけど、これは本気で大変な事業だったとはいえ、やってよかった。あれをやらなかったら、今のわたしはもっとスカスカで取るに足りない人間だっただろう。
国内トップの演奏者たちと一緒に仕事ができて楽しかったし、あの一日、あの場所ですべてのメンバーが、そして来てくださったお客さんのハートが爆裂に響き合い、とんでもない感動を生み出したのだから、やってよかった。
やっぱりこれって、自分の目線で生きてるからだと思うんですよ。
他人の目線で生きてないからね。
こんなことしたら他人からどう思われるとか、そういう生き方って他人目線を基準にしちゃってる。そうなると人間は自分で何もやらなくなる。
何もやらないと、何もやってないのだから、あとで後悔してしまう。
わたしはね、生きている間の苦労は我慢できるんです。だから、結構過激なこともやれちゃう。
でもね、死ぬ直前に後悔の念で苦しむってことだけはしたくない。死ぬ直前だけは、最高にハッピーでいたいんですよ。清々しくいたいんですよ。
だから、後悔は残さないようにやろうと思ったことはやっちゃう。
でも、すべてが成功し、成し遂げられることはないです。
企画倒れになったり、途中でどうしようもなく頓挫してしまったりする。勝率が10割ってことはあり得ないので。
しかし、やりたいと思ったことをやってみて失敗したのであれば、後悔にはならないんですよね。
そのときは、
「クソ!」
って思うけど、
「あぁ… やっぱやっとけばよかったな…」
とはならない。
やってみてできなかったのから、
「まあ、仕方がないか」
と割り切ることができるから。
要はちゃんと自分の中で腑に落ちているんです。
人間関係はいろいろあっても、実はね、一番付き合いが長いのは自分自身っていう他者なんですよ。自分との対話が一番長い。
本当はやりたいけど、思い切り踏み込むことができないっていうのは、自分自身という他者が言い訳してるってことで。
やらない理由を自分で生み出し、自分をそれで説得させている。
あとはね、やらない理由をこねくり回しているのって、すごく時間が無駄なんですよ。その間は何も生み出さないからね。
「どーしよか、どーしよか」
とか、悩むのって堂々巡りで時間がもったいないですよ。
案ずるより産むが易しでね。悩むんだったらやってみてから考えたほうがいいんです。
それで失敗したっていいわけだし。
そもそも成功するほうが珍しいんだから。
ただし、責任感だけは持つべきだけどね。
自分がやりたいことをやることは少なからず他者を巻き込んだりすることだから、責任感はなくちゃね。
ともかく、やらなかったことの後悔っていうのは、死に際にとても苦しむからね、後悔しない生き方をしたほうが実はお得なんですよ。