結月です。
あることを本気で、真剣に、ずっとやり続けて、それに関してはきっちりと見解を持てるようになり、社会の中でその自分を活かせているひとの話は聞いていておもしろいし、ためになる。
先日、そんな話を聞いて、ちょっと自分が覚醒した。
自分に足りてない部分が何であるかがわかると、ずっと見つからなかったジグゾーパズルのパーツがはめ込まれたときのようにハッとする。
そのパーツを得たことで、その次に行くことができる。
どんどん若くなっている、と思う。
若返っているのではなく、若くなっている。
若返るだと昔のものを取り戻すという意味になるけれど、昔とは違う自分になっているから若くなっている。
今から10年前の自分はもっと保守的だったし、融通も利かなかったと思う。
でも、今の自分のほうが昔より新しいし、急速に保守的でなくなって来ている。
普通、人間は年を追うごとに古くなる。
それは正確に言うと、古くなるのではなく、変化しないから時代とのギャップでいつしか古いものになっている。
例えば、人は引退する。そこから自由に何かをやるようになる。
勤め人なら定年退職して、そこから第二の人生を模索し始める。
ところがわたしの場合は、引退から始まっている気がする。最初に引退していて、すでに自由で、そこからしっかりと活動しようとしている。
息を抜いて行くのではなく、息を詰めて行っている。
そんなことを猫を抱きながら考えている。
そして、愛猫の顔を見ると、ちょっと老けたなと思う。
子猫のときからずっと一緒にいる。その猫が老けたなって思う。
時間は進んでいる。
猫たちは老けて行くのに、自分は若くなっている。
ただ、猫たちが離れて行くように思え、それが寂しい。
いつも一緒に寝ていたり、自宅では四六時中べったりなのに日々、猫たちが離れて行くように思う。
それはいつかは死を迎え、別れなければならないからで、あと十年ちょっとすれば、3匹いる猫たちが1匹、1匹とおそらくは順に死んで行くであろうことを想像する。
もし自分も同じように年を取っていたら、こんな寂しさはなかったであろうに。
自分が逆行しているがゆえに、猫たちが遠くなるような気持ちになる。
猫がみんな死んでしまったら、わたしは中国へ行く。
それはもう決めている。
猫がいる間は、ずっと一緒に日本にいようと思っている。
だから、日本でできる仕事をしようとしている。
でも、十年以上も経てば、きっと日本でやりたいことなんてわたしには残っちゃいない。きっと飽きてしまっている。
それはどんどん自分が若くなっているから。
十年経った頃は、中国はアメリカを抜いて、世界の中心になっている。そんな中国でまた新しいことをやろうと思っている。
本当はずっと死ぬまで猫たちと一緒にいたい。
しかし、それは無理なことで、どうやったってわたしのほうが長生きしてしまう。
本当はそんなことを言ってちゃいけない。
猫たちはわたしのところに来たお役目が終えると死んで行く。
それが終わったら、また新しいことをやりなさいと言われている。
ずっと猫と一緒にいたいなんて子供の言い分で、人間は進化しなければいけないのだから、ずっと猫とはいられないようにできている。
そうやってやることは尽きないんだから、引退なんてない。そもそもわたしは若いときのほうが引退したような生活だったから、これからは死に向かってクレッシェンドして生きていこうと思ってる。
ディミヌエンドなんて嫌だね。
でも、ディミヌエンドを選んでしまっているひとたちばかりだよね。
さて、今日は水曜なので、美食エッセーの更新です。
ニューヨークへ行ったときよりも今のほうがわたしは若いし、発想は自由になってるなぁ。