結月でございます。
よほど一緒に食事したいひととか、自分で開催するイベントでもないかぎり、わたしはもう外食はしないんですよね。
家には猫がいて、猫と一緒にゆっくりと食事するのが心地いいし、心底からこのひとと食事していろんな話を聞きたいとか、その時間を楽しく過ごしたいって思えないと外食で高い金払っても無駄というより損失なので、それだったら家で好きな料理でも作って、猫と一緒に食べたほうが自分には有益だからです。
と言いつつ、昔は外食はよくしたし、飲み会を楽しんだりすることが多かったんですが、今振り返ると、もったいない時間と金の使い方をしたなって思うんですよ。
さて、そんな前置きをしたのは、スーパーに行くことが多いからです。
レジ打ちを丁寧にしたって無駄でしょ?
クレーマーがどの分野にも多いせいか、スーパーのレジ打ちのひとが妙に丁寧で気持ち悪いなって思い始めてかなり長い時間が経ちます。
カゴからカゴへ商品を移し替える時もまるでテトリスのような技だし、言葉遣いもクソ丁寧で、ホテルマン以上じゃない?って思うし、お釣りの渡し方も丁寧すぎて逆にキモい。
スーパーでないけど、あるコンビニでレジに並んでいると、前にいた客がタバコを買いにきて、その銘柄の番号をオバサン店員に行った。
すると、その店員は、
「番号で言っていただいて、感謝いたします!」
と大声で言ったんだよね。
これはさすがに気持ち悪かった。銘柄でなく番号で買うなんて珍しくないのに、それを一方的に客の親切と拡大解釈して、一方的に感謝している。
仕事は丁寧さでは評価されない
レジ打ちって丁寧さなんてどうでもいい仕事なんですよ。だから、今はセルフレジとかも流通して、客が自分でバーコードを通す機械があったりする。
それに必要以上に丁寧だから、レジを通すスピードが遅いわけよ。
レジって、できるだけ並びたくないし、早く会計を済ませたい!っていうイライラがたまる場所だよね。だからレジで求められる快適は、クソ丁寧に商品を扱うことでなく、クソ丁寧な言葉遣いをしたりすることでもなく、早く済ませること、だよね。
だから、機械の方が早いし、給料払わなくてもいいし、人間から機械に仕事がシフトしているわけで。もし人間的丁寧さがどうして必要なものなら、レジはセルフになりません。でも現実は必要とされてないからセルフになってます。
なので、仕事は丁寧だっていうので評価されるのは、職人の世界とか、限られたものしかない。
丁寧にすることで、自分でいい人を演じすぎ
丁寧にすることでクレーマーを未然に防ぐっていう意図はあるにせよ、丁寧に接客することで自分がいい人だと思われたいっていう願望があると思うんですよ。
そして、それイコール仕事ができる人っていう認識みたいな。
お客様の声をよく聞き、親切丁寧に対応できるってことが仕事ができることと勘違いしているんですよね。
もちろん、あまりに無愛想で、客の質問にもろくに答えないのは仕事ができないってことになるけれど、過剰に丁寧にしてもそれで売上が伸びるわけでもないし、スーパー(もしくはコンビニ)なんて、買いたいものをサッと買うだけだから、とりわけ店員とフレンドリーな仲になることは求められていない。
わたしの場合は、できるだけ知らない人とは話したくないタイプだから、スーパーでは用事だけ済ませて、早く帰りたい。
でも、多くがそういうニーズだから、レジが機械になってセルフになってるんだと思うよ。
だから、八百屋や魚屋が独立していた昭和のように、
「へい、らっしゃいー!」
から客とのトークが始まり、客が、
「今日はどんな献立にしようかしら…?」
と言うと、
「いいサンマが入ってるよ!」
と、オヤジが威勢良く言い、
「じゃあ、サンマをもらうわ。今日は塩焼きね!」
みたいな頃じゃないってことなんだよね。
そんな古い時代が良かったなぁ、なんてノスタルジーを感じるのではなく、今はそんな時代じゃないから、それは求められてないですよってこと。
丁寧さを演出するってことは、他人目線で生きてる証拠
客に丁寧なひとに思われたいとか、乱暴なひとに思われたくないとか、そういうのって他人目線の生き方ですよね。
他人から見て、いいように見られたいってことで、自分の色を塗り替えている。
だから、そんなことを続けているとすごく疲れる。ストレスになる。自分を殺すことでもあるから。
それに親切丁寧を過剰にやっても、無愛想な対応でもレジ打ちなんて時給は同じです。丁寧にすれば時給が格段に違うっていうならやる意味はあるだろうけどね。
つまり、ひとから好かれたい、愛されたいって思ってやっていることは時給に関係ないんですよ。
だから、レジ打ちとかで丁寧にやっても無駄だし、それどころか丁寧すぎてレジの行列が長いなんていい迷惑となってしまう。
丁寧さが無駄だからこそ、レジはどんどんセルフになってるわけでね。
仕事は本質と結果
結局は、仕事ってその本質を捉えて、結果を出せてるかってことに評価が与えられる。
レジ打ちに限らないけれど、基本、誰にでもできる仕事は結果はそれほど大したことないです。だって、レジ打ちの結果は、お客さんの買った品物のトータル金額を出して、それを伝えて、お金をもらうだけなんで仕事の内容としての結果は些細なものです。だからいくら立ち仕事で足が痛くなろうが高い時給にはなりません。
なので、本質と結果がショボい職種はいくら頑張っても、いくら真面目にやっても、いくら丁寧にやってもその人個人にとってあまりメリットはないんですよね。だったら、無理に丁寧にして自分を殺していいひとを演じるより、黙ってレジだけ打ってるほうがいいです。
何もレジ打ちだけの話ではない!
スーパーのレジ打ちってわかりやすい例だから取り上げただけで、おそらく大概の仕事ってその程度なんじゃないかって思うわけです。
つまり、その人がいなくなっても代わりの要員がいてなんとかなってしまう。
今まではバーコードを読み取って、それをセルフで精算する機械が存在しなかったからレジ打ちという仕事が発生していただけで、自動精算機が出現したらレジ打ちの代わりになるので、レジ打ちという仕事は要らなくなります。
よく言われるようにAIが進化すれば、かなりの仕事が人間でなくていいようになるわけで。それどころか人間よりも速く、確実に、しかも給料を払わなくてもいい。
なので、丁寧にすることが仕事になっているような職種はまず最初になくなるでしょう。
あとは他人目線で生きていく生き方も破綻するんじゃないかって思います。生きていく意味を失ってしまってね。
自分のことを自分で決定する生き方がおもしろくなる!
逆に自分のことを自分でデザインして、自分で行動していくことができれば、これからますますおもしろくなります。
だって、今まで自分の思いでやろうとしてもいろんな組織的しがらみなどでできなかったのにそれがAIなどの進化でしがらみがなくなり、自由に動けるようになるので。
自分を自由にデザリングできれば、おもしろいです。
ただ、自由ってものに慣れてないと、自分が何をやったらいいのかわからなくなる。これは地獄かも。
仕事に行って、
「あの… 何をやればいいんでしょうか?」
なんて時代じゃなくなるから。
「知らねえよ、あんたのことなんて。自分でやってくれる?」
と言われるだけ。
ところが、この傾向が新しいものというのは間違いで、単に日本では新しい傾向っていうだけです。日本でない国では、基本的に自分のことは自分で決定するのが当たり前なので、外国へ行けば普通のことです。
でも、日本で生きていくなら、日本でさえAIで変わってくるだろうから、生き方をシフトしておいたほうがいいんじゃないかって思うんですよね。
とにかく、無駄な丁寧さには価値はないですよ。