結月です。
今日は水曜なので、note で美食エッセーを更新です。
さて。
自分がサラリーマンをずっとやっていたら気づかないだろうな、わかんないだろうなってことがよくあります。自営業ををもう10年以上前に始めてから、その間、いろんなことがあって、つまり自分で企画して、自分で予算を組んで、自分で実行していくという中でうんざりするほど様々なことがありました。
すべてのことが自分の責任なので、何をやるときの意識の高さはサラリーマンの比ではないです。成功も失敗もすべて自分のところに来ますから。
消費と投資は違う!
そんな中でわかってきたのは、「消費」と「投資」はまるで異なるものってこと。
普通はみんな、お金を消費に使っちゃうんですよね。
おいしいものを食べたいとか、好きな漫画を全巻一気に大人買いするとか、旅行に出かけるとか、得てしてそういうものです。
でも、そういうのって、後に残らないものがほとんどなんですよ。食べ物が一番いい例で、いくらおいしいものを食べても、ただ食べて「おいしい!」って喜んでも、それでおしまい。お腹いっぱいになったらおしまいで、次の日にはトイレに排泄される。
わたしは美食エッセーを書けるくらい、過去に美食道楽はやったんですが、今は全然興味ないんですよ。だから、家では適当なものしか食べないし、サッと料理しておしまい。
とは言いながら、昨日、スーパーに立ち寄ると秋鮭の切り身が半額になっていて、これはムニエルにするとおいしいと思い、家に帰ってサッと料理して食べたらかなりおいしかった。
この料理は300円以下しかかかってなくて、レストランだとその4倍の値段がするものを自分で作れば安くできる。
だから、家で食べられるものを外で食べるのが馬鹿らしくなったわけです。
そこに費やした時間と金が何をもたらしてくれたか?
バーにも全然行かなくなったのは、バーで過ごした時間と使った金が、今にどんな形で自分に残っているか考えたら、ほとんどないってことがわかったんですよね。
その当時はやるせない気持ちになっていて、飲まないと家に帰れない、そんな精神状況だったので、バーにはお世話になったな、とは思いますけどね。
あと、漫画も後に残りにくいものですね。文学作品と違って、読んだらブックオフに売られる率は高いです。家に残しておいてもあんまり意味ないし、かさばるし、読んでる最中は楽しくても、漫画を読んだ経験が生かされるってほとんどない。
旅行もただ行くだけの旅行って、名所で写真撮ったり、その土地のものを食べたりして楽しいけど、何か残るわけではない。
つまり、ほとんどが無駄になるお金の使い方が「消費」なんですよ。
費やしたものが成果を生む
ところが同じ食べるでも、極め尽くして食べまくって、フードライターができて、それで金を稼ぐとか、料理評論家になるとか、そういう立場になると「食べる」という行為が「投資」になってくる。
漫画も暇つぶしに読むのではなく、真剣に読んで読みまくって、漫画家になっちゃったとか、その漫画を知ることで漫画批評の仕事になるなら漫画本を買うことが「投資」になる。
旅行も同じく、旅行での経験を本にしたり、訪れることが事業につながると消費しただけの旅行でなく、「投資」になる。
すなわち「投資」とは自分の未来のためにお金を使うことで、リターンが望めることなんですよ。
うまいもの食って、「おいしかった!超幸せ〜」なんて言ってもリターンはない。太るだけです。
漫画ばかり読んでもそこに費やされた時間は膨大で、それなのに何も残らず、ただ面白かっただけだとリターンはない。
旅行だって出かけた先で何を感じ、それを自分の人生訓としてどう活かすとか、そこで見かけたものを事業にしてみるとか、そうでないとリターンはないです。
自己責任100%だから無駄な消費はしたくない!
もちろん、ただ楽しいだけでいいじゃん!ってことも言えますが、ずっと自営業者として生きていると、未来につながらないことにお金を使うのが馬鹿らしいというか、愚かに思えてくるんですよ。
そのリターンはお金でなくてもいいんです。思考が深まるとか、美意識が高まるとか、そういう非物質的リターンでももちろん構わない。
つまり、リターンを得るにはどう考え、どう生きていけばいいかっていうスタンスがあるか、ないかってことなんでしょうね。
何かを自分に残すっていう考え方だと思うんですよ。
最悪なのがストレス発散で酒を飲みまくること。これって消費としても最悪で、残すものは恥だったり、トラブルだったりするわけで。
ともかく、そこでお金を使って自分がどうなりたいのか? 今度、どういう未来を作りたいのかって考えて、それがないものには極力、お金と時間は使わない、そういうのがいいんじゃないでしょうか。
投資はマンション投資とかの意味でない!
投資というとマンションとか株とか、そういうイメージがありますが、それって単にお金がお金を生み出すプロセスにすぎず、それで人生が豊かになるっていう種類のものじゃないです。
だから、そういう投資をしてたくさんお金を持っていても、いまいち尊敬されないところがある。
広く言えば、お金のことだけではありません。その「行為」が未来の自分のどんなに人生に奥行きを与えるか?そう考えて自分が何をするのかも投資です。
ですから、「勉強」は投資のひとつです。
でも、総じて日本は学校の勉強はそういう未来への投資意識でやられることがありません。何か漠然としたところで「やらされている」。
英語を学校では中高と勉強したのに英語の読み書きもできないひとはほとんどなのは、その勉強時間が未来への投資としてなされていなかったからでしょう。
つまり、投資をするには明確な目標がなければなりません。
この辺りをはっきりしないまま、気分で勉強をしても結果は出ないんですよね。
買い物だってほとんどが気分でやっている。でも気分で買ったものの未来は「ゴミ」です。
文化が投資となる
上質な文化、奥行きのある文化は具体的でないにせよ、得るものが大きいです。それはその文化の中にとてつもないほどの情報が入っているからでしょう。
一見、わかりやすい情報、例えばハウツー本などは、思いの外、情報量としては少ないです。少ないからこそ、すぐに読めて、すぐに理解できます。
だから、同じ読書にしてもハウツー本やビジネス本はわかりやすい答えが用意してあるから、消費に近い。消費に近い本だから、歴史的に長く残るものはありません。
ところが世界文学とか、ルーブル美術館にあるような絵画など、長い年月が経っても多くの人間に投げかけてくる「何か」がある。それは解析しようにも結論が出ないもので、それは無限に近いほどの情報量がそこにあるからでしょう。
それらが常に未来につながっているからこそ、ダヴィンチのモナ・リザは描かれてから500年も経っているのに今のわたしたちをも魅了する。
そういう未来性のある文化に時間とお金を費やすことは一過性の消費でなく、上質な投資になります。
自分が何を得られるのか、何を与えられるのか?
時間とお金を費やすとき、それによって自分が何を得られ、何を与えられるかを考えるといいです。そうすると、無駄な宴会、無駄な食事、無駄な酒、無駄な遊び、そういったものが炙り出されます。
無駄に時間を過ごしても給料をもらえてしまうサラリーマンでない生き方をしていると、そうしたものがよりはっきりとわかるようになりました。
だからと言って、サラリーマンを辞めろというわけではないですが、会社に勤めることによって生じたストレスを発散させるために、そこで得た給料で酒を飲んだり、やけ食いをしたりするのは無駄というか、やっていることが論理的におかしい。
給料があるから会社に通っているのに、そのストレスのために消費をしてしまうのでは、本末転倒です。
ですから、自分の未来のために投資としてお金と時間は使うべきであって、何も残らない消費に費やすべきではないんですよ。