結月でございます。
今年の5月に全国ロードショーされていたのを知らずにいたチャン・イーモウ監督の新作「ワン・セカンド」(一秒钟)、宇都宮の名画座「ヒカリ座」でギリギリ見ることができた。
朝イチの時間であったため、保育園に愛娘を送ったあと、ダイハツミライースをぶっ飛ばし、宇都宮へ。
ヒカリ座は建物が昭和の遺物というルックスで、その屋上にある看板はネオンが錆びつき、70年代か80年代の栄光が廃墟のようになっている。
昔は最新作をやっていたのだろうが、今は名画座。しかし、いい映画を厳選している。
初めて劇場に行ってみると外見通りに古いが、トイレは新調されたのかきれいだった。トイレも昭和感がある古臭い汚さを想像していたがそれは覆された。
75席ほどの小さな劇場。
そこに座ったら、フランスを思い出した。パリやリヨンでわたしは毎日名画座で映画を観ていた。名画座ばかりを一日3本ハシゴしていた。
そんなパリやリヨンにあった小さな名画座にヒカリ座はそっくりで懐かしさがこみ上げてくる。
わたしを入れて客は3人。
映画が始まった。冒頭で広大な砂漠をボロボロの服を着て歩く男。
映画だなと思った。こういうのが映画なんだ。映画ならではの描写。これぞ映画。
あんな砂漠を一人で歩くことはおかしいのだけれど、映画はあり得ないこと、あってほしいもの、あり得ないけど物語では描かなければならない描写、それがあるのが映画。
ストーリーが進むと、それは文化大革命の強制収容所から逃げ出してきた男だとわかる。男は自分の娘が文革のニュース映画に少しだけ写っていることを知り、娘の顔を見たいから脱走してきたのだった。
しかし、その映画のフィルムが不運が重なりスクリーンに映し出すことができない。様々な苦労の末に1秒間だけ映っている娘の顔を見る。
それを見た男は鼻水を垂らして泣いている。このシーンにはわたしもちょい泣きしてしまった。
『妻への家路』ほどのボロボロ泣きではなかったが、チャン・イーモウは泣かせてくれる。それも保育園に5歳の愛娘がいるからだろうか。きっと10年前だったらこのシーンでわたしは泣かない。
映写技師の長は脱走してきた男のためにニュース映画に映る娘の姿を何度も見せる。しかし、長居されると自分の立場が悪くなるため、保安課に密告する。文化大革命らしい話。
ただ、そうしないと男を匿ったと思われれば自分も収容所行きだし、男を捕まえることで自分の出世もある。しかし、映写技師の長は男が捕まって、こっそりと娘が映っているフィルムを2コマ分、ポケットに忍ばせる。
映画は毎秒24コマで進んでいる。そのうちの2コマ。たった1秒間、娘が映っている24コマの中の2コマを渡した。
こういう優しい図らいが感動する。文革で立場がある中で、決して悪い人間にはなっていない。
ラストは文化大革命が終結し、強制収容所から男が出てくる。文革が終わり、いきなり時代が変わってしまう描き方はチェン・カイコー監督の『覇王別姫』でもあった。
最後はハッピーエンドではないようで、ハッピーエンドである気もする。男と少女はどうなったかはわからない。そこまでは決して特定せず、説明せず、終わらせる。そこがチャン・イーモウの文芸で、ハリウッドの娯楽映画とはまるで違うところ。
さて、ヒロインは刘浩存という若手。映画出演はこれが初めてらしい。
チャン・イーモウらしいというか、チャン・イーモウが好きタイプ。『初恋の来た道』(我的父親母親)でデビューしたチャン・ツィイーそっくり。
チャン・イーモウに見出されて映画に出たコン・リー、チャン・ツィイーはいずれも大女優になっているから、彼女もそうなるだろう。
さて、あの砂漠の果てには険しい雪山が連なっていた。撮影場所はわからないがあれは天山山脈であろうか? とすれはあの砂漠はタクラマカン砂漠である。
タクラマカン砂漠。その果てにわたしが行くと決めている楼蘭がある。あの砂漠と突っ走ると楼蘭に辿り着ける。
ジェネオケの公演は10年やることが目的。その間に「時」が来れば楼蘭に行く。
しかしやっぱりチャン・イーモウはよかった。映画を観た気がする。映画らしい映画がなくなった時代であるけれど、チャン・イーモウはまさしく映画だった。映画はああでなくちゃいけない。
そんなチャン・イーモウも70歳。あと何本、彼の映画を観ることができるだろうか。