結月でございます。
将棋は弱いくせに見るのは好きなわたしはAbemaTVで棋聖戦をリアルタイムで眺めていた。そして、その勝利の瞬間まで見届けた。
17歳で棋聖のタイトルを取って、しかも現在王位戦も戦っている。王位も取れば二冠。
これがどれだけすごいかというと、野球をやってる高校球児で卒業待たずにプロ入りし、かつ日本代表の4番でエースという感じじゃないだろうか。
そもそもプロ棋士になること自体が超絶難関で、四段であることがすでに並みじゃない。その中でタイトルホルダーとなるととんでもない化け物クラスで、しかも複数冠だと、
「どんな脳ミソしてんの?」
と、人間離れしたものになる。
さて、藤井棋聖だけでなく、プロ棋士の勝負を見ていると、この人たちは才能やセンスだけでここまで来たんじゃないとわかる。
もちろん、ズバ抜けた才能とセンスを持っているのだけれど、将棋に対して「真面目」であることが大きい。
真面目というと当たり前のように聞こえても、それは違う。本気の真面目。
いや、本人は本気なんて意識していないと思う。それは純金がどう分解しても純金であることのように意識してなされるものではない。
自分が取り組んでいることに徹底的に真面目。簡単で当たり前のようで意外とこれができない。
そして、世間ではやらなくていいことに真面目であったりすることが多い。
わざわざそんなことしなくていいよっていうものに真面目を気取って無駄なこと、邪魔なことをやっちまっていたりする。
しかし、将棋にせよ、何にせよ、ある分野でズバ抜ける真面目さはそういうどーでもいいことへの真面目さでなく、その分野への異様な真面目さ。
だから、才能があってセンスがあってもこの真面目さがないと駄目で、また真面目さだけで才能とセンスがないのもズバ抜けない。
プロ棋士の将棋を見ていると、勝ち負け以上に将棋のことが好きでたまらなくて、自分が負けた将棋でも悔しさというより将棋として何がいけなかったのかを考えてる。
それが本当の強さなんだろうな。
つまり、「あしたのジョー」じゃ駄目ってこと。あんな気合いと根性と喧嘩腰のやり方じゃ一流にはなれない。ジョーはセンスも才能もあったのだろうけど、真面目さが足りなかった。
さらに言えば、無頼じゃ駄目ってこと。
太宰治が芥川賞を取れなかったのも、真面目さが足りなかったせいじゃないか。
将棋だとやっぱ坂田三吉じゃ駄目なんだよ。もっとちゃんと真面目にやらなきゃ。端歩を突くなんてやってるようじゃね、勝てない。それじゃ、あしたのジョーだもん。
そんなことを藤井棋聖の対局を見ていて思ったわけで、愚直さってものがあった上にセンスと才能なんだということ。
そういうわけで、最近、わたしも真面目に生きるようにしています。